第90話:言葉が通じない

「はあ?」


 田村の声が低く唸る。いつものオレなら、ビビっていたかも。だけど今は、なんとも思わなかった。

 ポケットからヒジワラ券を取り出し、卓哉さんの前に置く。

 それから、ひどく泣いた後みたいにひきつけた喉を、深呼吸で宥める。


「田村、聞こえなかったのか? 帰れと言ったんだ。もうお前らは客じゃない」

「おいお前、マジで言ってんのか。足、震えてるぞ」


 オレが震えているか、それもどうでも良かった。頭にあるのは、席を早く空けろと。この部屋から、さっさと出ていけと。

 それだけだ。


「ね、手も震えてる。ヨシ、勘弁しなよ。弱い者いじめ、カッコ悪い」


 言うわりに、ショートカットはクスクス笑う。弱虫の見嶋をもっと恥ずかしめろ、そう聞こえる。


「み、見嶋くん。食事も出してもらったし、これは受け取ってよ。きみの言う通り、今のはこの子たちが悪い。俺から言っとくからさ」


 返したヒジワラ券を、卓哉さんがオレの手に握らせようとする。

 トレイを持つほうも持たないほうも、受け取れそうにない。ああ、たしかにオレは震えているらしい。

 少なくとも両手の拳が。


「オレは我慢してた。誰かを嫌な気持ちにさせるくらいなら、オレがって。今もそうだ、頼むから帰ってくれ」


 一本。人さし指を突き出し、田村の顔を経由させ、出口の扉へ向ける。

 吐きそうだ。誰だ、胃の中でトランポリンしている奴は。


「それをビビってるって言うんだよ。なんだ、我慢してるって。勘違いしちゃったか? 俺とお前が対等とかさ」


 椅子を蹴立て、「うへへっ」と気色の悪い引き笑い。だが田村の顔は笑っていなかった。同じ高さになった目で睨みつけ、オレより上に立とうとする。

 でもそれは無理。というか、意味がない。オレはもう、どうでもいいんだ。


「なあ見嶋、なんでお前なんかを誘ったと思う? この学校にさ。ぼっちだからだよ。俺がお前を使うためで、選択権はないんだよ。我慢とか当たり前だろ」

「うわ。ヨシ、悪ぅ」


 オレを奴隷扱いするつもりだった、とでも?

 だから田村のほうが偉いと言いたいようだが、やはりどうでもいい。嬉しそうに褒めるお団子頭と、それを嫉妬する目の俵も含め。


「分かった。帰れ」

「かわいそうなお前の味方になってやろうとしたのに、あっという間に孤立しやがって。びっくりしたわ、得意技だな」


 ぼっちのオレを庇えば「田村くんて優しい、素敵!」と?

 なるほど、そう言ってくれる女子ならオレも歓迎だ。釣りに気づかない、素直なところが。


 だが現実のオレは、庇えば一緒にぼっち堕ちの触れられない存在になった。予想外と言いたい気持ちだけは、痛いほど分かる。

 おかげで何ヶ月も寝かせた作戦を、二日でダメにしたわけだ。それは悪かった。


「……ああ。恵美須さんの髪、告げ口しチクったのはお前か」


 わざとオレをぼっちにさせる作戦だったと言うなら、ほかに思い当たることがない。もちろん、まだなにもしていなかった可能性もあるけど。


「知らねえよ。もし・・、知ってても言うわけないだろ」


 オレを悔しがらせるのは、ここ。そう見定めたらしく、田村は発音を見せつけるように、わざとらしく唇を動かす。

 やっぱりどこの星のインストラクターか不明だが。


「そうか、でもそれもどうでもいい。クラスの奴らに、なにをどう言ってもいい。その代わり、今すぐ出ていけ。二度とこの部屋に入るな」


 たぶん言いきった。それと同時、沸騰した頭が冷める。小さな氷の粒が次々と脳天を叩き、頬を伝って襟もとへ滑った。

 甘いコーラの香り。逆さの紙コップを突きつける田村の手。律儀で親切な奴だ。


「うるせえな。どうでもいいじゃないんだよ、謝れよ」

「なにを」

「こんなまずいもん、食わせたことだよ」


 歯を食いしばり、憎々しげに。田村の手が自身の紙皿から、焼きまんじゅうを取る。

 それはほどよく濡れたオレの眉間で潰れ、ズルズルッと胸まで塗りたくられた。


「おいヨシ、なにやってんだ!」


 遅いよ卓哉さん。なにやってんだ、はあんただ。今さら立って、手の先だけで割って入るふり。

 ダメだ、あんたなんかタク兄じゃない。思った通り、もうどこにもいない。


「いいですから、引っ込んでてください」

「えっ、いや。でも見嶋くん」

「正直にしていいですよ。なんとかしようなんて思ってないでしょ、面倒でしょ」


 どいつもこいつも、ほんとどうでもいい。卓哉さんは表情を強張らせ、「いや……」と声をフェードアウトさせた。


「で、田村。謝るのはお前だ、んで出てけ」

「は? なんで俺が」

「食い物を粗末にするなって言ったよな」


 謝れと言ったが、被害者の明椿さんはいない。それならむしろ、惨状を見せないほうがいいのかも。


「いや、いいや。どうでもいいから消えろ」

「なんだ? 見嶋のくせに」


 相手にされないのが悔しいんだろう。頬をヒクつかす田村を、奴の大好きな女子たちが見上げている。

 俵は我関せずを決め込んで? るのか、どら焼きの最後のひと口をうまそうに頬張った。


「そうだ」


 一転。田村は溌溂と、目を輝かす。

 さっとテーブルに目が走り、投げ出されていた文集に手が伸びた。

 白い表紙にも、茶色いシミが転々と散る。

 こいつらが帰ったら、これは捨てよう。僅かに目を逸らし、視界へ入らないようにした。


「お前の顔のハナクソ、取ってやるよ。集めれば食えるだろ、おいしく食えよ」


 頼む。誰かこいつの言葉を翻訳してくれ。オレの言葉がこいつへ通じるようにでもいい。

 ほんと、なに言ってんだ。

 理解に苦しむ目の前で、文集が二つに裂かれた。


「あっ——」

「ほらよ」


 くしゃくしゃにしたページが、オレの鼻を押し潰す。頬を、喉を。何度も小突くように、ごしごし、ぐりぐりと。

 整然と並んだ文字は、近すぎて読めない。しかしカタカナの続く箇所があって、たぶんそれはサンショウウオ。


 先輩と、明椿さんと。七瀬先生だって一緒に回ってくれた。

 どんな本なら読んでもらえるだろう。

 どんな文章を書けば伝わるだろう。


 あんこのついた皺くちゃの紙が、ぼとっと床へ落ちる。落書きだらけのスリッパが持ち上がり、勢いよくその上に下ろされた。 


「たむらぁっ!」


 辺りが真っ暗だ。ただひとり、スポットライトを浴びたみたいに田村が見える。

 浮き上がる白い顔。渾身の力で拳を叩き込んだ。

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