第89話:帰れ
「なんでこの本にも唐揚げがいんの?」
「サンショウウオとか茶道とか、臭っせえことしか書いてないな」
「ヤバない? ケモノの頭のセンシとか、サイショーとか。チューニ、チューニ」
俵が来て、奴らはますます騒がしくなった。文集をバカにしているのは分かるが、段々と日本語にも聞こえなくなっていった。
すると間もなく、残っていたおばちゃんたちが席を立った。「ごちそうさま」と、蔑む目で振り返りつつ。
もっと早く帰ってくれれば、田村を入れなくて済んだのに。ぼんやりする頭に、そんなことが浮かんだ。
違う。やかましい客を放置して、迷惑をかけたのはこっちだ。
「ありがとうございました」
叫んでも、聞こえたか怪しい。
だがあとは、オレが乗りきれればいい。なにを言われても、無視して受け流せば。
そうやって一学期を過ごしたじゃないか。ましてや今は卓哉さんがいる。あまり頼れそうにないが、少なくともよほどのことはしないはず。
そう思うと、ちょっと気が楽になった。乱れた息は戻らないけど、あと少し。あと少しと、自分の身体に呪いをかける。
耐えきって帰らせればオレの勝ち。溜まった呪いが、奴らを木っ端微塵に砕く。
耐えきれなかったら負け。オレはもう、二度と立ち上がれない。
「み、見嶋くん。もうできるよ」
中二と言われるのも無理はない。でも妄想のおかげで、早く時間の過ぎた気がする。
暖簾の向こうから、か細い声がした。覗けばたしかに、注文通り。
厨房で椅子に座る姿を初めて見た。先輩の戦いは終わったんだ、ゆっくりしていてほしい。今度はオレの番。
獣頭の主人公みたいに故郷を追われたわけじゃない。まだこの暖簾の中だけでも、オレが守ることはできる。
「お待たせしました、はちみつベーコンです」
卓哉さんと、お団子頭の前へ。オレの考えた料理をタク兄が食べると思うと、それだけは嬉しい。
ここまでの不愉快が百のマイナスとして、一のプラスにもならないけど。
「こちら、ホイップ入りどら焼きです」
無邪気に手を伸ばしてくる、ショートカット。
なんだ本当に楽しみにしていたのか、微笑ましいじゃないか。なんて、もはや欠片も思わない。
先輩の考えた先輩の作った物を、なんでお前らに食わせなきゃいけないんだ。
本心を噛み殺し、俵の前にも同じ物を。
「焼きまんじゅうです」
田村には投げつけたって良かった。やはり先輩の作った物だし、そうはしなかったが。
手が震えて、まんじゅうの跳ねるくらいは勘弁しろ。
「これ、お前が考えたやつ?」
「——いや違う」
「明椿さんか」
なぜそんなことを。問う理由が分からないし、教えたくもない。でも嘘も吐けなくて、黙ってしまった。
「そうか。じゃあ、どら焼きがお前か」
「なんで知りたがるんだよ。誰が考えたっていいだろ」
「えっ、違うのか」
今度は答えなかったのに、なぜ分かる。ごまかそうとしても、もうはちみつベーコンに視線が集まっていた。
「えー、見嶋くんが考えたの? パンケーキのパクリみたいなやつ」
「言わないであげなよ。みんな気づいても言ってないんだから」
お団子頭に名前を呼ばれる筋合いはない。だがこれくらいなら許容範囲。ひと息挟めば「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げられる。
「無視すんなよ」
低まったのは
女子ふたりが並んで睨む。田村もだ。
「あんたさ、ちょいちょい無視してくれるよね。舐めてんの?」
「はっ、えっ?」
胸の鼓動が、これ以上なく早まる。
無意識に、扉のほうへ目が向いた。都合良く明椿さんが戻ってこないか、情けなくも期待して。
「だからそれだって。人と話す時はさ、目ぇ見なよ」
ショートカットが脅し、お団子頭が舌打ちする。
田村お前、こんなのがいいのか。我ながら、それどころじゃない。けど、言い返したり謝ったりは頭に浮かばなかった。
「ねえ」
親しみ度ゼロパーセントの呼びかけ。どうするつもりか、ショートカットの手がオレに伸びる。
「きみたち。二度めだ」
顎。もしくは喉の直前で、手が引き返す。卓哉さんの短い勧告に、ごまかしの笑声が三つこぼれた。
「笑いごとじゃなくなってきてるよ。見嶋くんは一所懸命やってるんだ、気に入らなくても言い方ってものがある」
「はーい」
「冗談でーす」
素直、と看板のかかった声。寸前までのなにもかも、なかったようにフォークを握る女子ふたり。
卓哉さんも呆れた風に、鼻から息を噴く。しかしなぜか、その視線はオレにも向いた。
えっ。
お前もだよ、としか読み取れない。
オレが悪いのか? なにが、どこが?
なにも言えずにいると卓哉さんの視線が逸れ、横に小さく首が振られた。だめだこりゃ、と聞こえた気がした。
「でもタクちゃん。見嶋が頑張ってるって、俺たちのおかげなんだよ。たぶん本人、分かってないけど」
唐突になにを言い出した。田村の声に卓哉さんも「うん?」と首をひねる。オレはその一万倍もひねって、ねじ切れそうだ。
「いやさ、うちのクラスのクレープ屋。こいつ、なにも手伝わなくて。同じ文芸部の明椿さんだって、今も買い出しに行ってくれてるのに。でも俺たちは、見てみぬふりしてやってる」
なあ俵。と求められた同意に、どら焼きを頬張った大福が縦に揺れる。
いやいやいやいや。
いや、を百万回も繰り返したい。いやまさか日本語に聞こえるだけで、こいつはよその星の言葉で喋っているとか?
「そうなの?」
「えっ、その。オレ、クラスの演目は、なにも役目をもらってないですし」
眉間に皺を寄せ、卓哉さんの声にため息が混じった。
そもそも、クラスのほぼ全員から無視されている。なんて詳細を話せる雰囲気はない。答える途中で卓哉さんは「あー」と低く唸る。
「そういうことはあるよ、でも自分から言わなきゃ。サボれる、ラッキー、ってきみが思ってないとしても、周りはそう見る」
「いや、あの——」
どうやらオレは、うっかりに便乗したサボり魔に認定された。よりによってタク兄に。
違う、そうじゃない。
言いわけの言葉が、喉の奥から上がってこなかった。今の言葉で気持ちの底が抜けた気がする。
「つーか見嶋、お前がすっぽかしたコンパ。あれもこのふたりが予定空けてくれてたのに、迷惑かけたんだからな。オレはいいけど、謝れよ」
「コンパ?」
そんなもの、行ったことも誘われたこともない。だいいち大学生や社会人のやることだろうに。
「五月の連休! しっかりしろよ」
五月って、随分前のことを。ゴールデンウィークと言えば、オレたちは旅に出ていたけど——。
あ。
田村が本棚を壊した時の話か。思い当たって、どっと疲れる。なんでそれがオレのせいだ。
「悪かったよ」
どう言おうと、田村はオレを悪者にしたいだけ。卓哉さんもろくに事情を知らないまま、うわべの話しかしない。
もう面倒だ。謝って気が済むなら、それを土産に帰ってくれ。
「俺にじゃないって言ってるだろ」
嬉しそうに。ニヤニヤと勝ち誇った眼が、女子たちを示す。
いいところを見せたつもりか。これで「カッコいい」なんて言う奴、オレは嫌だ。
「ね、あんた気づいてる?」
当のふたりも、田村の話なんか聞いていなかった。お団子頭がショートカットに、肘を押しつける。
「なにを?」
「パクリがこの子でしょ。まんじゅうがメガネ。じゃあさ、あんたのどら焼き。あの女のじゃない?」
「げっ」
それぞれが、ふた口くらいは食べたあと。ショートカットは凄まじく不細工に顔を歪め、リンゴジュースを飲み干した。
「で、でもさ。あんたのだって結局、作ったのはあいつでしょ。同じよ」
「うわ、ほんとだ。サイアク」
また嘔吐の真似をしながら、息ぴったりにフォークを突き刺す。まだ半分以上も残るどら焼きとはちみつベーコンが、ぐずぐずの泥溜めに変わっていった。
「ああ」
くらくらする。湯気を噴きそうなほど、顔を覆う空気が熱い。
それでいて、首から下は冷えきった。ぞくぞくする寒気が、拳を握らせた。
「食べ物を粗末にする人は帰ってください。ヒジワラ券も返しますから」
震える声。怒りか怯えか、自分の感情が分からなくなった。ただ、胸の内に同じ言葉が繰り返し湧く。
帰れ。
帰れ。
帰れ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます