第88話:迷惑な作戦
「見嶋くんだっけ、きみも言い返さなきゃ。ヨシみたいなバカは、黙ってたらつけあがるよ」
「うぇっ、ひどいなタクちゃん」
女子ふたりも「そうそう」と田村を指さして笑う。当人は傷ついた風に抗議をするものの、おどけて笑いながらだ。
違う。オレと田村とは、友だちでも連れでもない。卓哉さんの人となりを話すような仲じゃない。
「あ、そうだ。先にこれ渡しとくよ」
苦笑しつつ、卓哉さんの手がオレに向けられた。反射的に受け取ると、何枚も重ねられたヒジワラ券だった。
「えっ」
「どれを頼んでも三百円、じゃない三百ヒジワラみたいだから。人数分だよ」
対面のお団子頭が卓哉さんにも見えるよう、メニューをテーブルに置いている。それを視線で示し、今度はやんわりと笑う。
やっぱりタク兄は、オレにだけは優しい。
なんて、ありえない。子どもの頃にだってタク兄は、特に優しかったわけじゃない。ただカッコ良くて、いちばん歳下のオレも仲間外れにはしなかっただけ。
「いや、でも……」
「ん、まずい? ヨシたちがからかったのは謝るよ。もうさせないし、なんだかここのメニューが評判って聞いて来たんだ。頼むよ」
骨張ってカクカクした顔に似合わない、愛想の良さ。頼むという表情も作って拝まれては、帰れと言えなかった。
向こうの席のおばちゃんも、うるさいわねって感じの視線を見せる。仕方なく、受け取ったヒジワラ券を数えた。
「あの、三枚多いです」
「いや、十五枚あるだろう? それでいいんだよ、すぐもうひとり来るから」
「ああ、そういう。分かりました」
出す物を出したら、関わらないでおこう。さっさと帰ってくれるのを願って。
真っ白。ではなくなったエプロンのポケットに、ヒジワラ券を捩じ入れる。と、卓哉さん以外の厭らしい笑みが見えた。
「それで、ご注文は」
手の中のメモ用紙で視界をいっぱいにする。漏れ聞こえる笑声は、気のせいと思い込む。
それで五人分の注文を取ることはできた。しかし次の関門を、同じ方法では越えられない。
ポニー先輩、作ってくれるかな……。
そんなの嫌だ、と泣いてしまうかも。恐怖に震え、立ち上がれないかも。
どうやったら、とっとと帰らせよう作戦に協力してもらえるか。頭痛を堪え、暖簾を捲った。
「先輩」
「注文だよね。いいよ、言って」
フライ返しを握り、ホットプレートの前へ。もう一時間近く、調理をしていないはずなのに。
先輩のルの字の眉が、見たこともないくらい深く刻まれていた。不自然に上がった口角は、天井から吊っているかと思うほど強張っていた。
「いや、あの——」
「こ、これで目標達成でしょ。頑張ろ」
たぶんオレは、大丈夫なんですかとか聞こうとした。でも先輩の声に遮られ、代わりに息を呑んだ。
あと二冊くらい、田村を追い返したってきっと売れる。最悪、オレが払ったっていい。
材料がなくなったとか、言いようはあったじゃないか。なんでオレは、注文なんか取ってきた。
自分の情けなさに、目の奥が熱くなる。
「すみません。ご注文です」
額を拭うふりで、目の上に腕を滑らせた。力強く、いや出来損ないのロボットみたいにぎこちなく、先輩は頷く。
注文を伝えると、直ちに調理が始まった。生地を溶く手が、温度調整をする指が、震えて危なっかしい。
「飲み物、出してきます」
「お願いね。あとちょっとだよ」
オレの仕打ちに、先輩は明るい声を絞り出す。と言ってホットプレートに落ちた生地の、ジュワッという悲鳴にも負けそうだったが。
オレはもう背を向け、黙ってジュースを用意するだけだ。
「お待たせしました、セットの飲み物です」
五人分バラバラだったけど、どれが誰のと確認することもなくてきぱきと置く。間違っていたらなにか言われそうだが、合っていた。
食べ物は待ってほしいと告げ、さっと回れ右をする。
「おい見嶋」
ノミの心臓とは、まさにオレのことだ。極限まで強く脈動した胸が、飛び出さんばかりに跳ね上がる。
いや目に止まらなかっただけで、窓の外へ飛んでいったかも。死人の冷たさを自分の首すじへ体感しつつ、振り返る。
「なにか」
「なにか、じゃねえよ。食いもんは待つけど、すぐ出せるのがあるだろ」
一瞬、本気で分からなかった。だが田村はメニューを突きつけ、説明の文句を指さす。
全てのメニューには、文芸部員の想いを篭めた文集が付きます。と誰が考えたのか、姑息で迷惑な売り捌きの作戦がそこにある。
「読ませてくれよ、お前の作った文集を。面白いんだろ?」
「ああ、アレね。図書室でイチャイチャしながら書いてたやつ」
誰かがひと言を発するたび、うへへっと笑うルールみたいだ。後頭部を殴るピコピコハンマーのような、腹の奥へ突き立てる五寸釘のような。
どちらにしても不快でしかない。
「……どうぞ」
部室に元からある棚に向かい、もう山とも言えなくなった中から五部を取る。
バカにされると分かっていても、渡さない方法がなかった。メニューに書いてある以上、詐欺になってしまう。
「これが? 小学校の時のじゃないよな」
案の定、触れる前から田村の大口が動く。文集を挟んで握手するみたいで、光の速さで手を離した。
「なにこれ、画用紙で作ったの? それにしたって綺麗な色使えばいいのにね。白はないでしょ」
「なんだっけ、いちごいちえ? ありがちよね」
女子ふたりの口も軽い。表紙を眺め、文句を言い、パラパラとページを捲る。
「ごゆっくり」
卓哉さんは一ページずつ、目を通してくれるようだ。それはありがたいが、放し飼いの動物をどうにかしてほしい。
もうさせないと言わなかったか?
どうでもいい、関わらないほうが楽だ。諦めて厨房へ戻る。
自分が怒ってるんだか悲しんでるんだか、やっぱり怖れてるんだか。煮えた頭では判別もつかない。
「お待たせぇ」
暖簾に触れた時、扉のところへ人の姿が見えた。しかし客にしては、おかしなことを言う。
間延びした声も聞き覚えがある。まさかと思ったが、やはり。そこにいるのは俵。
なら、明椿さんも?
立ち止まって見ていても、銀縁メガネはいつまでも見えない。
その間に、なぜか俵は席に着いた。田村の隣へ、卓哉さんの座っていた椅子に。
卓哉さんはと言えば、別の席へ移動した。だが女子たちが「一緒にいてよ」と騒ぎ、また勝手にテーブルをくっつける。
どいつもこいつも。
くらっ、と視界が真っ暗になった。倒れる寸前、ダンボールの壁にもたれかかる。
しんどい。
自分自身の荒い息さえ、腹が立って仕方がない。
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