第86話:強まる暴風

「悪いね、お客じゃないんだよねぇ」


 コンビニのレジ横の大福よりも柔らかそうな頬が揺れる。オレと目を合わせても、俵は特に嫌な顔をしなかった。


「ええと?」

「明椿さんにねぇ、ちょっと。クラス演目のことだから」


 クラスのことだから、なんだ? オレの肩越しに覗く仕草が、ひがんだ気持ちを起こさせる。

 違う。ここへ来た用件を言われただけだ。


「呼んでくる」

「悪いねぇ」


 背を向けた視界の端に、入り口の一線を越えた俵の足が映る。

 無理に上げたオレの頬が引き攣った。入ってくるなとも言えず、気づかなかったことにして厨房へ。


「明椿さん、俵が。なんだかクラスのことでって」

「ええ?」


 まだ先輩と話していたらしい。微笑みが真顔に変わり、テレビの脇の時計に向く。

 時刻は午後三時を回ったところ。疑問は分かる、あと二時間で閉場なのに、なんの用と言うのか。


「うん、ありがとう」


 しかし明椿さんはそれ以上を言わず、暖簾をくぐった。

 オレもトレイに飲み物を載せたままだ、あとを着いていく。


「お待たせしました」


 埋まった八席のお客さんは、誰も文集を見ていない。つまりそれぞれの連れと、楽しそうにお喋りの花を咲かせている。

 そういう時間を、せせらぎで過ごしてくれるのが嬉しい。けど、今だけは邪魔と思ってしまった。


 入り口近くにいる明椿さんの声が聞こえない。せめて自分だけでも、と声が小さくなった。

 意識的には耳を千倍くらい大きくしたが、聞こえるようにならない。遠い席をさっさと終わらせ、明椿さんに近い席へ近づいていく。


「それは無理」


 紙コップ一つを残したところで、はっきり聞こえた。決して怒声とかではなかったけど、きっぱりとした拒絶が。


「でもさぁ——」


 俵の声も聞こえたが、中身は分からなかった。女声じょせいの渦中、男声だんせいはかき消される。

 最後のコーラは、いちばん近い席のお客さんへ。ここまでの三倍の速度で接近し、三倍の時間をかけて紙コップを置く。


「うん、いいよぅ。見嶋くんとやってる模擬店にかかりきりって、みんなに言わなきゃいけないけどねぇ」

「それは脅し?」

「えぇ、なんでさ? 断られた理由を言わなきゃ、俺が怒られちゃうでしょぅ」


 フッと、ふたりの会話以外が消え失せた。同時に背中へ、悪寒が落ちる。

 ぞくぞくと震えるような寒さ。反して首から上だけが暑い、というか熱い。

 なにを要求されたか知らないが、明椿さんの言う通り、脅しにしか聞こえない。


「なにか難しいこと?」


 聞き流せなかった。俵の声がオレに向いた罵倒ならどうでもいい。しかし矢面に立っているのは明椿さんだ。

 正直、足が竦む。でも放っておけば、苦しくなった息が休まることはきっとない。


「あっ、見嶋くん。いえ大丈夫」

「そうそう。食材が足りなくなって、買い出しを頼みたいだけだからさぁ」


 胸の前にトレイを構え、明椿さんの横へ立った。ちらとこっちを向いた銀縁メガネが、すぐに正面へ戻る。

 それはちょっと寂しかった。


 しかし俵の言い分はなんだ。この時間になって、今さら? しかも人数の足りていないこっちへ、わざわざ言ってくるとは。


「へ、閉場まで二時間ないのに?」

「そうだよぅ、まだ二時間もある。でも買い出しに時間をかけてたら、間に合わないからさぁ。みんな手分けしよぅって」


 分からなくはない。が、なんでそれを明椿さんに。しかもオレをダシにしてまで。

 そんなことを言われたら、明椿さんは自分よりもオレの立場を気にするじゃないか。


「一応さぁ。俺が買い出し班のリーダーだから、明椿さんにもねぇ。どうしても無理なら別の方法を考えるけど、でももう考えてから来てるんだよねぇ」


 そうだ、明椿さんは買い出し係だった。事前に終わったと聞いたが、追加が必要になるのもおかしくない。

 この場でおかしいのは、俵の態度。言葉を重ねつつ、顔を向けるのは明椿さんに。半笑いの視線はオレに。


「……分かった。明椿さん、オレが言うのも変だけど、行ってきてよ」

「えっ、でも」


 驚いた顔が、音を立ててこちらを向く。メガネが飛んでいかないか、冗談でなく心配した。


「もう落ち着いたし、こっちは大丈夫。なのに明椿さんを拘束してたら、オレの都合ってことになるし。悪いけど頼むよ」


 オレの立場なんか、もともとない。また茶髪女子に軽蔑されたとして、元通りってだけ。

 それより明椿さんまでも同じランクに落としてしまわないか。そのほうが気になる。オレがオレのためにと言えば、明椿さんは断れない。


「戻ってくるまでに文集売っとくから」


 開きかけた明椿さんの口から、次の言葉が出てこない。そこへ畳みかけで拝む。

 すると小さく、呆れたような怒ったような息が漏れた。


「分かりました。部長の指示に従います」

「う、うん」


 真顔で、明椿さんはエプロンを外した。それを畳みながら部室を出て行く。

 見送る俵は「行ってくれるの?」なんて、わざとらしい。返す刀で


「悪いねぇ。ちょうど良かったよ・・・・・・・・・、明椿さんが買い出し係でさぁ」


と、これはオレに。ニタッとした笑みに答えず、せめて睨みつけてから視線を切った。


 それから三十分くらい。起きたことを先輩にも言えず、席を空けていくお客さんを見送った。

 そろそろ帰ってくるかな。その前に文集を売らなきゃいけないんだが。


 やきもきしても、どうもできない。黙っていてもあとふたり、それくらい来てくれると思ったのに。

 部員の確保分もあるから、できれば六人。いやでもそんなことより明椿さんが——。


 落ち着く先のない気持ちを抱え、テーブルを拭く。残っているお客さんはひと組、これが帰ったら先輩に話そう。

 そう思っていると、階段の方向から賑やかな声が聞こえた。少なくとも二、三人の男女。


 これで一応の達成か。安堵とも言えないモヤッとした息を吐く。

 しかしお客さんには関係ないことだ。切り替えて入り口に見えた人影へ声をかける。


「いらっしゃいませ!」


 あれ?

 入ってこない。どうも廊下に置いた三本脚の看板を見ているらしい。いくら見たってメニューもなにも書いてないんだが。


 男女ふたりずつ。女子は両方とも、土原学園の制服を着ている。男子のひとりもだ。

 もうひとりは、上着なしのスーツ姿だった。きっちり締めた水色のネクタイが眩しい。


「なんだこの看板」


 制服の男子が、看板を叩いた。ちょっと叩いてみた、ような加減でなく。硬いフロアタイルに跳ねる木の脚の音。

 よく壊れなかったもんだ。明椿さんの設計のおかげだろうが、嫌な記憶が脳裏をよぎる。


 それは直ちに、現実としてオレの目に映った。先頭で部屋へ踏み込んだのは、よく知った顔。

 唯一、同じ中学からやってきたクラスメイト。田村良顕が親しげに手を持ち上げる。

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