第85話:嵐の来たる午後
「まあ、それは名案ね」
どらやきとはちみつベーコンを半分に。焼きまんじゅうは、普通に二つ。という案は、快く受け入れられた。
「それでも食べきれないようでしたら、焼きまんじゅうは包んでお持ち帰りください」
クッキングペーパーとビニール袋で良ければ用意がある。という明椿さんの提案に、教頭先生たちは「いい心配りね」と微笑む。
それは用意したわけじゃなく、明椿さんの思いつきだが。
「出来上がるまで、お目汚しですが」
そんな日本語もあったな、なんて思う言葉がぽんぽん出てくる。文集を手渡す明椿さんの隣で、ぺこりと頭を下げるしかできることがない。
「ああ、七瀬先生の言っていた文集ね。力作と聞いているわ。でも今から読んでしまうと、席を立てなくなりそうだから、あとで休憩時間に読ませてもらうわね」
「ありがとうございます」
明椿さんに合わせ、またおじぎする。
教頭先生ってだけで、なにをどうしていいかアタフタしてしまう。いつもと違った様子のない明椿さんを、素直に凄いと思った。
「緊張してるの?」
厨房の暖簾をくぐると、その明椿さんが囁いた。耳の間際ってほどでもなかったが、首から背中へ鳥肌が走る。
「緊張かな、うん。失敗しないようにって、力んでると思う」
「昨日はそう見えなかったけど」
昨日も見回りの先生は来た。昼食代わりにと、普通に食べていく先生もいた。しかしたしかに、二年や三年の先輩たちに応対するのとさほど違う感覚はなかった。
教頭先生のカフェオレを紙コップに注ぎながら、なんでだろうと考える。
すると意外に、答えがすぐ頭へ浮かんだ。
「七瀬先生が、教頭先生は味方っぽく言ってたからかな」
「味方?」
「ありがた迷惑なところはあるみたいだけど、津守先生みたいなのが増えたら困るし」
校長が七瀬先生を特例で甘やかす。それを面白くない津守先生が、嫌がらせで文芸部を潰そうとしている。
と打ち明けられたのを、明椿さんも思い出したようだ。「ああ……」と口ごもり、暖簾の向こうをちらっと窺う。
「教頭先生は校長先生の側ということね」
「そうらしいよ。七瀬先生も世間話に付き合わされるみたいだし」
なんの話だったか、七瀬先生がたとえ話に言っていた記憶があった。
そういう教頭先生が、休憩時間とは別にわざわざ来ている。それなら粗末にできない、と話しながら改めて思う。
「見嶋くんも七瀬先生のこと好きなんだね」
「えっ」
心臓がキュッと縮んだ。全く意識にない言葉が含まれていて、しかも言ったのが明椿さんの口でなかった。
「いや好きとか嫌いとか、そういうのじゃなくて。ええと、その、世話になってるから、迷惑をかけられないっていう——」
「うん。そう思うのは好きだからでしょ?」
話には流れってものがある。お互いの納得を積み重ねた上でしか、言えない言葉もある。
今は明椿さんとだけ話しているつもりだった。それを横から突飛なことを、しかも好きとか、心外なことを。
いくらポニー先輩でも、そうですねとは答えられない。
「いや、ですから、好きっていうんじゃなくて。なんだろうな、ええと、そうだ。オレのばあちゃんを大事にとか、そんなのですよ」
オレの一途な気持ちは、先輩と明椿さんだけに向いている。それを妙な勘違いをされては困る。
必死に考え、ほぼ間違いない例を挙げた。のに、先輩は「え?」と首を傾げた。
「見嶋くん、おばあちゃんのこと好きじゃないの?」
「あ……いや、好きですよ」
「それと違うの?」
真剣な顔はベーコンが焦げないようにだ。先輩の目は、手もとからほとんど逸れない。
「違いませんね」
「ほら。私もそうだよ、だから迷惑をかけたくないって気持ち分かる」
「で、ですよね」
ほんの二、三秒。こちらを向いた丸顔が「ね」と微笑む。結局オレはどう言いたかったのか、それだけで吹っ飛んだ。
「飲み物お出ししてきます」
そもそもの問いかけをした主が、その間に暖簾をくぐって出ていく。
午前十一時前。窓を打つ雨が、いつの間にかなくなっていた。
教頭先生たちが席を空けるころには、雲を抜けた日光を感じ始めた。
間違いなくそのおかげで、せせらぎへ来てくれるお客さんが増えた。正午を過ぎる前に、二度も満席になるほど。
午後二時くらいまで、ずっと席が埋まったままだった。どうにも列が縮まらず、隅へ押し込んだような席も増やしたのに。
今日は三年の先輩と、一般のお客さんがメインらしい。三時前になって、ようやく立ち止まる時間ができた。
「文集の残りが、十二冊になりました」
とりあえずの注文を捌ききり、お茶をがぶ飲みする先輩。同じく水分補給に戻ってきた明椿さんが、目標達成まで間近を知らせる。
「えっ、ほんとに?」
「間違いありません。作成が二百十冊なので、達成にはあと二冊です」
汗を散らし、先輩は目を丸くする。真顔で答える明椿さんも、声が少し走り気味だ。
頷き合う女子ふたり。やった、と叫びかけた先輩に、明椿さんは「しーっ」と唇へ指を当てた。
「やったね」
「まだですが、どうにかなりますね」
今度は小さすぎる声で、でも両手の拳をぶんぶん振って、先輩はその場で跳ねる。
明椿さんの言うように、まだ厳密には達成していない。しかし当人も、初めて見る満面の笑みだ。
「出前が効いたね」
「ですね。明椿さんのおかげです」
「いえ私はむしろ我がままを」
途中、美術部の先輩から配達できないかの相談が明椿さんにあった。その人のクラス演目で教室から離れられない人に、と。
もちろん構わないと引き受け、オレが配達を担った。昼過ぎにも薬を飲んでいたから、体調も問題なかった。
それからほかの教室からも依頼が相次いだ。口コミってやつだろう。
たしか全部で三十冊分くらい。むしろ大変だったのは、オレのいない間にひとりで回していた明椿さんだ。
「そんなことないって」
「いえ——うん。私と、弥富先輩と、見嶋くんも。みんな頑張ったね」
気まずそうに開いた口から、きっと出てくる予定の声は違ったはずだ。でも明椿さんははっきり首を横に振り、頑張ったと言って笑った。
「だね。でも見嶋くんは、そろそろ持っていかないと。それ」
「あっ、そうでした」
一回だけならお代わり可能の飲み物を、トレイに用意したままだった。先輩の指さしで思い出し、暖簾を捲る。
さっさとお客さんに出して、もう少し喜びを分かち合いたかった。
「お邪魔しまぁす」
その時だ。のっそりとした大きな声が、せせらぎに響いたのは。
「いらっしゃいま……せ?」
迎える声が、疑問の形に変わる。入り口に見えたのは一年A組のクラスメイト、俵夏彦だったから。
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