第84話:ぐずつく午前

 せせらぎの滑り出しも良くはなかった。開場してすぐ、昨日も来てくれた二年生がふたり。三十分くらい経って、またふたり。


 来てくれるだけでもありがたいけど、そう悠長にも構えられない。窓を叩く雨が、強さを増している。


「あれ。ナナちゃん、今日もいないんだね」

「そうですね。見回りとか、役目があるらしくて」

「へえ。絶対いる、んだったらもっと繁盛するのにね」


 もしこの人と付き合ったら、日曜日はいつも買い物だろう。なんて雰囲気の、長い髪の二年生。

 もしも、の話だ。あくまでオレは、ポニー先輩と明椿さんひとすじ。


「そうかもしれませんね。でもまあ、客寄せパンダみたいにできませんし」

「そう? 言えばやってくれると思うよ」


 部室内を見回し、ねえ? って感じで笑う。うん、間違ってはいない。悪気がないのも分かる。


「あはは、そうかもです。一年のオレからすると、まだピンときませんけど」

「まあね。今年は一年の受け持ちないんでしょ? 接点増えたら分かるよ」


 いやいや。去年のことは知らないが、今はたぶんオレがいちばん接触している。


「授業でですか。たとえばどんなことが?」

「うーん? 授業そのものは分かりやすいけど、面白おかしいってわけじゃないよ。時々ある突っ込みはやたら鋭いけど」


 続くお客さんはなく。今のところ最後の注文を出した、この二年生との会話が終えられなかった。

 一緒に来た対面の人と声を上げて笑うのは、七瀬先生をバカにしているわけじゃない。

 分かるけど、なんとなくひと言を加えたくて。


「なんだろ、真面目なのがいいんだよ。それで『今のは変だったな』なんて、自分のミスをネタにしちゃうの。あの声でだよ、面白いでしょ」

「いじられキャラとも違うんですね」

「だね。ナナちゃんて、基本的になんでもできるでしょ。それとのギャップ?」


 いちいち頷ける。この人は正確に先生を見ていると思う。

 それなのにオレの中のどこかで、違うと感じた。


「聞けばなんでも答えてくれるけど、体力ゼロなのが可愛いよね。あ、そっか。体育祭のことは知らないのか」

「体育祭?」

「うん。あれでナナちゃんファンになった人、多いんじゃない」


 ああもう、なんでそんな気になることを。そろそろ区切りをつけなきゃと思うのに、できないじゃないか。


「なにがあったんですか」

「あのね、障害物競走に出たんだけど。顔真っ白にしたままお米運んで、転んじゃって。そのあと網に引っかかって出られなくて、もう可愛くってさ」

「へえ……」


 分からん。

 いや分かるけど、もっと言葉と感情を尽くして語ってくれ。という要求が無茶なのは知っている。

 これ以上の話は出てこないだろう。そう思うと自分でも驚くくらいに「教えてくれてありがとうございます」の声が事務的だった。


「七瀬先生のお話?」


 厨房脇に直立で、明椿さんが待機していた。ずっとあちこちを拭き掃除したり、こまめに動いていたけれど、さすがにやることがなくなったらしい。


「うん、まあ。ごめん」

「えっ、どうして? 見嶋くんが楽しそうで良かったと思ったんだけど」


 やましいことはない。忙しい中をサボっていたのでもない。どうしてと言われても、なにに謝ったか自分でも分からなかった。

 楽しそうで良かったとか、それは嬉しい言葉だけど。なんだか恐縮ですって感じがする。


「楽しかったのかな。去年の、体育祭が面白かったって話」


 明椿さんに並び、入り口の扉を眺める。厨房の中から、物を移動させる音が静かに聞こえた。


「楽しくなかったの?」

「どうだろ。貶されはしなかったんだよ、七瀬先生をね。むしろ褒めてたし、慕ってるんだと思う」


 試験の答え合わせをするような、明椿さんの声。だからかオレも、分析めいた言葉がスルスルと出る。


「うん、分かる」

「分かる?」

「剣道の偉い先生がね、うちに来ることがあるんだけど。お父さんにアドバイスなんてしてると腹が立つもの」


 言われて「へえ」と応じたものの、今の会話に関係あったか? と思った。横目に見ると明椿さんは、座っているお客さんをゆっくり見回していた。


「おかしいでしょ? その先生のほうが段位は上だし、私は剣道のこと知らないのに」

「あ、いや。分かるよ、お父さんだもん」

「うん。分かってもらえて良かった」


 分かったのは、明椿さんのお父さんの話だけ。オレとあの二年生とは、話が全く違う。

 でも指摘する気にはならなかった。新たなお客さんが、姿を見せなかったとしても。


「いらっしゃいませ!」

「ふたり、いいかしら」

「もちろんです」


 オレは出遅れ、明椿さんが入り口近くまで走った。

 しかし結果オーライかもしれない。誰かと思えば教頭先生と、三年の学年主任の先生。


「どれがお勧めかしら」

「申しわけありません。私たちが文集に書いた作者へ、それぞれ敬意を篭めました。ですから——」


 説明の途中で、教頭先生は大きく何度も頷く。そういうことなら理解したと、オレにも聞こえた気がした。


「でもふたりで三つは多いわねえ」


 痩せすぎでは? と心配になる頬を撫で、教頭先生は悩む。入学式でも披露した美声を聞けば、健康の問題はなさそうだが。


「——見嶋くん、見嶋くん」

「えっ」


 背中の側から呼ばれた。オレにとっての美声とは、この声以外にない。ほかに一人の例外を含む。


「ハーフサイズ、作れるよ」

「ハーフサイズ? あっ、分かりました」


 昨日と同じく、先輩は客席の様子が気になるらしい。おかげで教頭先生の葛藤に答えをくれた。

 もちろんすぐに、一緒に悩む明椿さんへ伝えに向かう。

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