第83話:不調の朝

 朝。

 日曜日で、文化祭の二日め。昨日よりも、一般の人がきっと多く来る。

 文集をあと九十二冊。部員用に買い取った四冊を勘定に入れても、八十八冊。そんなの余裕、とは言えない数を売らなければ。


 そういう大事な日なのに、カーテンのすき間から射し込む光が乏しい。布団の中からでも夜と間違うほどではないが。

 しとしと、ぴちゃぴちゃ。梅雨のぶり返したような、嫌な気配がある。細く重い雨音。


「う……最悪か」


 なにがって、天候もだが。身体じゅうがだるい。

 最近はバスタオルをかけて寝ていたのに、今は毛布が欲しいくらいに寒かった。


 昨日、風呂に入る時。脱いだシャツが汗くさかった。自分では意識していなかったが、汗だくになっては乾き、を繰り返していたんだろう。

 このだるさは、きっとそのせいだ。


 しかし休めない。そしてもう、いつも布団を出る時間は過ぎた。

 よし。

 それ。

 今度こそ。

 身体を起こそうとしても、力が出ない。実際の筋肉にもだけど、気持ちに勢いがつかない。


 先輩と明椿さんが待ってる。

 ふたりの顔が勝手に浮かんだ。すると少し、胸の辺りが軽くなった。

 うつ伏せになり、うずくまる格好から上体を起こす。それだけでジョギングでもしたみたいに息が切れた。


「アホか、寝てろ」


 と、聞こえたのはオレの妄想だ。しかし答えた。


「そういうわけにいかないでしょ」


 七瀬先生になら、軽口でも強がりでも言える。おかげで立ち上がり、台所へ行けた。


「ちょっとユキちゃん、大丈夫?」

「え? なにもないよ」

「嘘言わないの。フラフラしてるわ」


 朝ごはんとお茶の準備をしていたばあちゃんが駆け寄る。そんなに走ったら転ぶよ、ってほうがオレには心配だった。


「そう? うーん、言われてみればボーっとしてるかな。大丈夫と思うけど、風邪薬とかある?」

「置き薬はあるけど。お医者さん行かないと」


 そんな暇はない。病院が開くのを待って、診察して、なんてやってたら昼過ぎになる。


「ほんとに大丈夫だってば。薬飲めば落ち着くし、お腹も空いてるし」

「本当に?」


 両親もそうだけど、ご飯が食べられれば元気っていう謎基準はなんなんだろう。おかげで信じてもらえて助かるが。

 いつもの座卓で待っていると、焼き鮭と大根のみそ汁、納豆と卵が並んだ。どれ一つ、納豆のひと粒さえ喉を通りそうにないけど、うまそうと思い込む。


 納豆と卵をご飯にぶっかけ、強引に胃へ流す。鮭はからいくらいに塩が利いて、むしろ食べやすかった。

 ねばつく口の中を洗うのに、みそ汁は最適だ。ふうふうと熱いのを冷ましつつ、これも一気に。


 なんて、そんなわけない強がりで食いきった。心頭滅却すれば、って言うのは本当かもしれない。


「じゃあ行ってくるね。無理そうなら帰ってくるから、心配しないで」

「本当にね。なんならおばあちゃん、迎えに行くから」

「大丈夫だって。ありがと」


 ばあちゃんの出してくれる置き薬は、普通に薬局へ行っても見ない物ばかり。でも飲んで十分くらいで、まったく我慢の要らないくらいに楽になった。

 置き薬、凄え。


 念のためにマスクを着け、バスの窓からずっと顔を出していた。初めて乗った子どもみたいだが、他人に迷惑をかけるよりいい。

 しかしバスを降りると、すぐさまマスクを外した。文芸部のみんなに心配をかけたくない。


 それにしても文化祭のなにがいいって、自分のクラスに行かなくていいことだ。せっかく薬が効いたのに、あんな空気にさらされたら倒れてしまう。


 引き換え、今は文学カフェせせらぎとなった部室はどうだ。昨日の先輩の奮闘が、まだ甘い匂いとして残っている。

 だけでなく。いい匂いの元は、ほかにもふたつ。


「おはよう!」

「おはようございます」


 先輩は壁ぎわの棚や装飾を、明椿さんは客席を、それぞれ拭いていた。


「すみません、今日は先に来てようと思ったんですけど。寝坊しちゃいました」

「あはは、平気だよ。大したことしてないし」


 制汗剤だか香水だか、柑橘と石鹸の香り。だけでなく、優しく鈴を鳴らしたような声。高らかにバイオリンを弾くような声。

 いける。これなら今日を乗りきれる。ばあちゃんの置き薬に加え、これほど霊験あらたかなお守りがあれば。


 八時四十分の予鈴が鳴り、ほぼ同時に七瀬先生もやってきた。イベント中といえ、さすが教師としての習性——いや朝寝の習慣か。


「どうだお前ら」

「元気です。雨ですけど、頑張ります」


 言う通り、ポニー先輩はいつもより元気だ。図書室で会うよりという意味だが、先生の前ではまた一段と。


「先生、おはようございます。私も万全です」


 折り目正しく、腰の高さまで頭を下げる明椿さん。「そうか」と直立で応じる先生が、そこまで偉そうに見えないのは体格のせいだろう。

 あれで明椿さんと同じ背丈があったら、箔が付きすぎる。


「どうした」

「え?」

「え? じゃない。体調やらなにやら、調子はどうだと聞いた」


 急に目を剥くからなにかと思った。どうもオレがボケッとしていて、その顔真似ということらしい。


「いやそんな面白い顔してないでしょう」

「自惚れるな」

「……普通に大丈夫です」


 どういう意味だ。

 そんな笑いを取れる顔でない、と言うのか。それともその域ですらなく、もっと不細工ってことか。

 どちらにしても、そこまで突っ込む余力がない。舌打ちと共に「そうか」と流されたのにも、苦笑いを。


「改めて言うことは特にない。しかしこういう祭りごとは、多少の羽目を外すものだ。まあ怪我をしてはつまらんが、そんな感じで楽しめ」


 いいことを言ったんだか、適当なんだか。ともあれ先生は役目を終えたという顔で、開場前の客席に座る。

 今日はまだ余裕があるらしく、朝一番の試し焼きを腹に入れる心積もりらしい。

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