第82話:売れ行きと雲行き
最後のお客さんを見送り、改めて全部の客席を拭き、厨房へ。
途中で見た時にはホットケーキミクスで白く汚れていたテーブルが、もう綺麗に掃除されている。
「ふたりともお疲れさま! オレンジジュースで良かったかな」
調理中と同じく、ソファーの対面に立ったままの先輩が、オレンジ色のなみなみ揺れる紙コップを出してくれた。
クレヨンで塗り潰したみたいな緑と赤に触れると、かなりの水滴が付いていた。
「んっ、んっ——ぷはあっ! 冷たっ!」
「ありがとうございます、弥富先輩」
なにを言う余裕もなく、まずは飲み干したオレ。きちんと頭を下げ、それから口をつけた明椿さん。
言っても今さらなのは分かっているが、負けた気分だ。
「七瀬先生、戻ってくるかな」
「どうでしょうね。学校じゅう、ぐるっと回るなんてかなり疲れますよ」
今日の一日、先生がいたのは一時間に足りない。見回りの順番が回ってくると、決まったコースで全ての演目に行くらしい。
それがたぶん、四回だった。
「どちらにしても、報告できることは先にまとめておきましょう」
と、明椿さんが手提げ金庫を持ってくる。ホームセンターで千円くらいの、安っすいやつだ。
「報告できること? ヒジワラ券以外はなんだっけ」
「飲み物や食材の在庫が、明日も足りるのか。コンロなどの備品に故障などはないか。私たちに怪我や体調不良はないか」
売り上げたヒジワラ券は、とにかく金庫へ突っ込んでいた。折れ曲がったりしいても、直す暇はなかった。
それを丁寧に、ソファーに座った明椿さんが広げる。十枚重ねるごと、十字に積んで。
「なるほど。先輩、在庫の確認しますか」
「ん? もともと二百食は作れるように用意したし、ひっくり返したりもしてないから大丈夫だよ」
小柄な身体で、疲れていないのか?
先輩の声はハキハキとして、テーブルの下から食材を取り出すのもサッサッと素早い。
「心配なのはベーコンくらいかな。今日はだいたい予定通りだったけど、偏って注文されるとね」
「あら、すみません。オレのメニューが」
「えっ、そういう意味じゃないよ。はちみつベーコン、おいしいよ」
ベーコンとあんこも明椿道場と付き合いのある業者さんから仕入れた。足りないからと近所のスーパーなんかで買えば、たちまち原価が跳ね上がる。
「あはは、ありがとうございます。ええと、先輩は体調良さそうですね」
「うん、元気」
空笑いでごまかし、見たままを問う。先輩はラジオ体操みたいに両腕を上下させてアピールした。
すみません、テイクアウトは可能ですか。
「ええと、明椿さんは」
「私も大丈夫。見嶋くんこそ疲れたでしょう? 座ったら」
「あ、うん」
数える手を止めず、目を離さない。横から手出ししても邪魔になりそうで、おとなしく従う。
七瀬先生ひとり分くらいを空け、明椿さんの隣に座ろうとした。
ほんの少し、膝を曲げた途端。カクッと力が抜けた。柔らかいソファーの座面に、尻もちを突く。痛くもなんともないが、驚いて息が詰まった。
「大丈夫?」
「え、ええ。油断しました」
油断もクソも、こうなるとは考えていなかった。心配そうに覗き込む先輩から、恥ずかしくて目を逸らす。
「うん、終わった」
するとちょうど、明椿さんがヒジワラ券を手放した。きちんと積まれた山がいくつもあって、見た目の印象だけでも相当の枚数と分かる。
ではいくら? と言いかけた。が、明椿さんの声がかぶさった。
「弥富先輩、すみませんが数え直していただけませんか」
「うん、いいよ。ダブルチェックだね」
その言葉は知らなかった。でも語感的に、間違いのないように別の人が数えるってことだろう。
卑しく聞こうとしたのをごまかし、残ったジュースを一気に飲む。
炭酸のない百パーセントジュースが、融けた氷で薄まっている。もはやみかん水っぽい濃さだったが、火照った喉にはむしろおいしい。
蓮華の花びらくらいの氷片が、歯に当たって勝手に割れる。そのせいか、窓から流れ込む風がひんやりとした。
九月の頭。夏の終わりと呼ぶには早い。夕暮れの教室は、いつもこんなに心地良かったかなあと思う。
これで夕焼けでも見られれば満点だったが、あいにく暗いグレーだ。
「終わったよ。三百二十四枚だった」
「はい、同じです。すると百八冊が売れたことになりますね」
「うん、凄い凄い!」
「はい、凄いです。目標の半分を超えるなんて」
拍手する先輩。付き合って手を叩き、何度も頷く明椿さん。
オレはどこか人ごとのように、百八冊か凄いなあなんて感じていた。しかしすぐに、冊? と疑問に思う。カフェの売り上げなのに、なぜ単位が人じゃないのか。
「あっ、文集も数えれば良かったね。見てくる」
文集
汚名挽回、ではなく返上のために膝を叱りつけて立ち上がる。
「腹減った」
涼しい風の抜けていく扉のところで、あまり涼やかでないセリフが聞こえた。
「あ、先生。お疲れさまでした」
「……弥富、なにか余ってないか」
オレには目もくれず、だらんと両手を垂らしたゾンビが厨房へ向かう。
無理もない。今日はなにか食べている姿を一度も見かけなかった。
さておき、最も重要な文集を数える。
文集単体で買ってくれた人はなく、三百二十四枚のヒジワラ券を三で割れば百八。明椿さんの計算は正しかった。
「目標まで、あと九十二冊です。明日も今日の調子なら、むしろ足らないくらいです」
「ふぁぁ。だあぁうぇうぃは、ふぃんふぁいふふはほふぃっふぁふぁろ」
ゾンビが生者に立ち戻っていた。ソファーのど真ん中へ座り、あんことはちみつの載ったホットケーキもどきをがつがつと。ただ、言語能力は復活していない。
一緒になって、手を組んで踊ってくれることはないと思っていたが。こうまでいつも通りでは、オレも喜ぶタイミングを見失った。
「ああ。だから売れ行きは、心配するなと言っただろ。だって」
「よく分かりますね……ていうか食材、大丈夫なんですか?」
育ち盛りの子どもを見守るお母さんみたいに、じっと先生を眺める先輩。上気したほっぺたが赤く、いつもより微笑みが濃く思える。心なしか困り眉も、下弦から水平に近づいた。
「うん、試し焼きしたのをとっておいたの」
「さすがです」
普通に食べれば三、四人分が、瞬く間に姿を消した。いつもの調子からするとまるで足りないが、とりあえずジュースも一気飲みして落ち着いたらしい。げふぅっと、どうにも褒めようのない音が垂れ流された。
「見回り、大変ですね」
「そうでもない。どこへ行っても味見してくれとな、役得だ」
明椿さんの労いに、ちょっと手を上げて答える。が、続く言葉には首を傾げざるを得ない。それならなぜ、さっきのゾンビは生まれてしまったのか。
「腹減ったって」
「一年A組も賑わっていた。絶対数でこちらの勝ちだったが」
「そこは別に勝負してませんから」
華麗なスルーをスルーする。一年A組の話題には、なんとも答えかねる。
まあ、失敗しやがれとは思わない。あっちはあっちで楽しめばいい、と完全に他人ごとを決めこもうと努力した。
「ん、来なかったのか?」
「誰がですか」
「だからA組の」
「来るって言ってたんです?」
流しておきたいのに、頷かれては無視できない。どんな楽しみ方をしても自由だが、こちらのテリトリーに踏み込んでくるなら別だ。
あ、いや。茶髪女子なら構わないのか。
「ええと、それは、ちなみに、一応聞いておきますが、誰が」
「前置きが鬱陶しい。さて誰だったか、まあいかにも悪ふざけで言っていた。そういうことなんだろうさ、気にするな」
上着のポケットからペットボトルを出し、ラッパ飲みで飲み干す先生。もはや酔っ払いに見えてくるが、そういえば酒は飲むんだろうか。
空容器を先輩に渡し、ふうっと息を吐いた。視線はテレビに向かうけれど、今は汚れないよう布をかぶせている。
「今日はできませんよ」
「お前。いつでも遊ぶことしか考えていないと思っているな」
「違うんですか」
そんなことは思っていない。でもそういう冗談として答えた。
先生にも伝わったはずだ、フッと鼻から小さな笑声が漏れる。
「今は違う」
「ってことは、今はなにを?」
「さっき言っただろうが。
「はあ、意外と先生も大変なんですね」
オレたちのカフェがうまくいき、文集が二百部売れるか。たしかに土曜の今日よりも、日曜の明日のほうが売れ行きはいいように思う。
だからそれ以外。つまり教師として、ほかの仕事ってことだろう。それには茶化せない。先生も静かに「まあな」と答えるだけだ。
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