第80話:文化祭の始まり

 七瀬先生によるシミュレーションは、十数回も行われた。そのたび本当に食べる必要はなかったと思うけど。

 それで木曜は夜になり、最後の準備は金曜になった。


 と言っても、もうほとんどやることはない。減った食材を買い足すのと、厨房スペースの入り口に暖簾を付けようってなったくらい。

 八割がたをポニー先輩が作ったメニューは、明椿さんがカラーコピーとラミネートしてきてくれた。


「読んでもらえるといいね」


 テーブルを前に先輩が立つ。両手で持つ文集の表紙へ、その眼は注がれる。

 呟いたのは、ソファーに横たわる先生に向けてではないと思う。

 部室の外へ貼る、せせらぎの文字を切り抜いていたオレと明椿さんにでもない。


 銀縁メガネの下で、微笑みの形が作られた。合わせて首も上下に動く。

 本当に眠ってもないと思うが、七瀬先生は特になにも。


 こういう時、黙っているべきだろう。それがデリカシーというか、情緒的というか。

 アニメでもよくある。仲間同士、言葉にはしないけど通じ合ってるみたいな。ああいうシーン、大好きだ。


「先輩」


 しかし呼びかけた。

 オレがここに。文芸部にいるのは、みんなと触れ合うため。


「え、あ。なに?」

「売れますよ、きっと。オレ、頑張りますし。読んでもらって、面白いと思いますよ」


 先輩と明椿さんのは、というただし書きは声にしなかった。これくらいの学習能力はある。

 先輩は無意識だったのかも。「ん?」と首を傾げ、でもすぐに困り笑いをしてくれた。


「だね。私も頑張って、おいしいの作る」


 勢いよく、グーが突き出された。

 もはや殴られに行きたいまである。正気を疑われそうで、どうにか堪えたが。

 先輩は厨房内の整頓を再開させ、オレもまた鋏を握った。


「——頑張りましょう」


 手もとの画用紙に目を落とし、数秒。すぐ近くで誰かが言った。「ん?」と顔を上げたが、目の前の明椿さんは文字の周りの枠を作っている。


「ええと……よろしく?」

「よろしくね」


 なんて言うのが正解だったのか。

 明日、先輩は厨房から出られないし、オレの不器用さは定評のあるところ。申しわけないが、明椿さん頼りが多発するかもしれない。

 悪いけどよろしくね。の意味だが、伝わっただろうか。


   ***


 九月三日、土曜日。土原学園の文化祭は初日を迎えた。

 午前九時の開場を前に、文芸部は部室へ勢揃いした。体調不良とか、誰もなく。


「おい、受け取れ」

「なんですか?」


 ソファーに座った七瀬先生が、手を突き出した。出したオレの手に、何枚も重ねた紙の感触がある。


「ヒジワラ券だ。額面は百ヒジワラしかない。現金は不可、使えるのはそれだけだ」

「へえ、それっぽい感じですね」


 全体的に青く、千円札と雰囲気が似ている。肖像画は、へのへのもへじだが。

 大きさも四分の一くらい。しかし先生がくれたのは四、五十枚もあり、ちょっと金持ち気分だ。


「一種類だから、お釣りを出すことはないですよね。これ、なんです? あ、お小遣いですか」


 オレたちが店を空け、ヒジワラ券を使う暇があるとは思えない。だが何千円分も貰っては、どうにかして使わなければとも思う。


「アホか。昨日、私の食った代金だ」

「ああ、それですか。毎度ありがとうございます」


 痛烈な舌打ち。もうそれくらいでは動じず、ヒジワラ券を数える。


「で、弥富。思うことはあるだろうが、楽しめ。まあ尻に火が点いて無我夢中ってのも、思い出にはなるがな」

「はいっ」


 テーブルの向かいに部員を立たせ、なんだか顧問みたいなことを言い始めた。

 先輩も気をつけで声を張る。


「明椿。美術部はいいのか?」

「はい。あちらは手が足りているそうなので、専念できます」

「そうか。お前も苦労性だからな、あとさき考えずにはしゃぐってのをやれればいいんだが」

「努力します」


 先輩とお揃いの、ピンクのエプロン。両手を前に頭を下げると、メイドみたいで萌える。

 先生の言う通り、戦地に向かうような表情が柔らかくなれば最高だ。


「昨日も言ったが、売れ行きは気にするな」


 先輩、明椿さんときて、まとめっぽいことを言い始めた。その後かなと思っていたら、先生はソファーからお尻を上げた。


「あれ?」

「なんだ」

「なにか忘れてたりとか」


 ちょっと機嫌の悪そうな顔。ハッ、と鼻から抜ける息。冷たい視線も、いつも通りで安心する。


「忘れている? まさかお前にもなにか言えと言うつもりか」

「ひどっ。オレ、一応は部長ですよ」

「部長なら、お前からなにか言うのが筋だろうが」


 その通りでございます。ぐうの音も出ないとは、たぶんこのことだ。


「あの、なにも考えてなかったんですが」

「だろうな。お前はそういう奴だ」

「くっ……ええと、来年もこのメンバーで同じことをしたいです。なので今日、死ぬ気でやります」


 死ぬ気で目標を達成する。

 死ぬ気でこの文化祭を楽しむ。

 それでどうやって死ぬんだ、とは突っ込まないでほしい。


 分かるでしょ。と見つめても、指摘するのがこの人だ。まあそこまでがセオリーみたいなところもある。

 案の定、今日二度めの「アホか」が発せられた。


「来年は体育祭だ。文化祭はない」

「あ、そうでした。って、そういう話じゃないですよ」

「知らん。私は楽しめと言っている、お前こそ人の話を聞け」


 やはり突っ込まれたが、予想と違う。「はあ……」としか返事ができなかった。

 両脇から、クスクスと小さく笑い声が聞こえてきたからいいけど。


「私も役目があってな。一日に何度か、見回りに出なければならん。これからさっそくだ」


 面倒そうにため息を吐き、先生は土原学園の腕章を着けた。三人でいってらっしゃいと見送り、開場時間を待つ。

 やがてスピーカーから電気の通ったノイズが聞こえ、思わず見つめた。先輩と明椿さんも。


「午前九時になりました。これより、土原学園の文化祭を開始致します」


 放送はまだ続き、おそらく諸注意を言ったんだと思う。

 だが聞こえなかった。学校じゅう、コンクリートの校舎を揺るがすような歓声が一分近くも上がったから。


 中学の時、こんな熱量のあるイベントはなかった。

 高校へ来ても、文芸部に入らなかったら。関係ないと拗ねていたように思う。


 唾を飲み、なにか伝えたいなと言葉を探した。しかしそれは、どうやら間に合わない。

 最も催しの少ない北校舎の三階へ至る階段に、たくさんの声が聞こえ始めた。

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