第四幕:ぼっちと憧れの人

第77話:看板は四枚

 土原学園って凄えよなあ。だって八月の最後まで、夏休みたっぷりだもん。

 と言ったのは、朝の校門近くで見た別のクラスの男子。


 同感だ。三日前の月曜から、二学期の始まった学校も多いらしい。

 しかも、九月一日の今日は木曜。

 金曜が準備の日で、土日が文化祭の本番なのは例年通り。だが今年は始業式の後、すぐ作業に取りかかれる。


 実質、四日間ぶっ続けでお祭り気分に浸れるわけだ。

 夏休みが終わっての登校も、嬉しそうだった男子の気持ちは分かる。オレもまた、少し理由は違うが嬉しかったから。


「あー。せっかくの祭りだ、楽しむところはしっかりと楽しめ。しかし事故や揉めごとを起こさないように。自分だけでなく周りの人間にも、残らずこの文化祭をつまらんものにしてしまう」


 始業式が終わり、自分の教室へ戻っての諸注意。

 そんなもの、何人がまともに聞いているやら。少なくとも一年A組には、ひとりだけと思う。


 当然にそれはオレじゃない。一秒でも早く部室へ行きたくて仕方がなかった。

 では気をつけてと話が終わり、津守先生が教室を出ていく。すると直ちに「なにから始める?」と誰かが切り出した。


「看板って、できてるんだっけ。少しでもいいとこに設置したいよね」


 こういう時、さすがの茶髪女子が声を上げた。どうやら看板作製係が、設置を許可された場所の争奪戦に行くらしい。


 まあオレには関係ないことだ。火種となった当人から、もういいと言われたものの。

 役目のない奴がうろうろしても邪魔なだけだ、賑わう後ろをこっそりと脱出する。


「看板係のひとぉ、俺のところに来て」


 途中、牛が鳴いたかと思った。

 のんびりした口調で、声はでかい。俵夏彦のぽっちゃりしたほっぺたに、茶色の髪は似合っているのか?


 集まる人数の中に明椿さんの姿もある。そういえば看板係だったな、なんて見え透いた嘘を自分に吐いた。

 あれ。俵の一人称は、僕じゃなかったか。


 まあまあ。気にせず職員室へ向かい、部室へ。

 鍵はあった。開けるのはオレだ。だからどんなに急いだって、誰も待っていない。

 そうと分かっていても、足が早まる。落ち着けと自分の手で押さえても、撥ね退けてしまうほど。


「はあ、はあ……先輩?」


 息を切らし、扉を開け、部室の中へ呼びかける。いるはずはなく、小声で。

 返事はなかった。しかし悲しくはない。いくつも不安があるけど、今は久しぶりの気持ちが勝る。


 向かい合わせに置いた学校机が、七組。白いクロスで、なんとなく良さげな食卓に見えた。

 脇を抜け、壁ぎわの棚へ。そこに積まれた冊子の一つを取る。

 一期一会の文字の下へ、三人の学生の版画。白い表紙、緑色のテープに浮き出す、堅く綴じた紐。


 完成した文集を、もう先輩は見たんだろうか。

 早く見せたくて。読む姿を見たくて。パラパラ捲ったが、流し読みもする気にならなかった。


 ——しかし遅いな。

 待ちきれず、チラチラと入り口へ視線を向けたのはもう何千回めか。

 たぶん実際には、まだ五分も経っていないが。間が持たなくて、意味もなく窓を開けることにした。


「わあ、カフェになってる」


 窓枠に手をかけると、背中から声が聞こえた。遠慮がちに、遠くから聞こえる内緒話みたいな。


「凄いね、見嶋くんが?」

「いえ。製本の日に明椿さんと、先生と」


 振り返れば、入り口を一歩入ったところに先輩はいた。

 軽く両足を揃え、両手でカバンを提げ、ゆっくりと部屋じゅうを見回し、ポニーテールがゆったり揺れる。


「そっか。ごめ——」

「え、なんですか?」


 なにか言いかけ、先輩はきゅっと口を噤ませた。

 問いかけには、首を左右へ。見慣れたルの字の困り眉で歩いてくる。オレのつま先辺りに目を落とし、五つ先のフロアタイルの中へ止まった。


「ありがと」


 それはきっと、微笑みだった。けどお世辞にも、困ったようにしか見えない。唇の端が上げられたのに、眼がとても悲しそうだから。


「ええと……」

「色々。私のこと、私の分もやってくれたから」


 間抜けに頭を掻くオレに、先輩は自身を指さして見せた。それから視線を低いまま、文集の山に顔を向ける。


「いや。ですからそれは」

「うん、分かってる。明椿さんにも七瀬先生にも言うよ。でも見嶋くんにね、ありがとって言いたかったの」


 ああ。

 まだ結論は出ていないから、その話はしないほうがいいかなと思っていた。こんな風に先輩が言うのも、おそらくそうだ。


 でもそれなら、オレはなんて言えばいい?

 カッコいい答え。面白い答え。泣かせる答え。あれこれと言葉の欠片が思い浮かぶ。

 あまり間を空けてはおかしい。焦ってつかんだ言葉を、放り投げた。


「ええっと、先輩。申しわけないですけど、まだまだやることは残ってますよ。特にレシピ系」


 なんだこれ。

 真面目なわけでも、気が利いてもいない。いかにもオレらしい、中途半端な答え。


「うん、そうだね」


 だが。先輩は頷き、その反動を利用した感じで顔を上向けた。

 正面に合った顔が、必死に笑おうとしていた。それでオレは、笑ってしまった。


「あははっ」

「ひどい。なんで私の顔見て笑うの」

「えっ、違いますよ! 先輩を見てたら、笑いたくなっただけです!」

「ひどい!」


 たしかにひどい。誓って、バカにする意図はないんだけど。

 先輩も怒ったように言うものの、口もとを押さえて笑ってた。


「いいよ、意地悪するなら。見せてあげない」

「なにをですか」


 見せるって。思わず先輩の顔をまじまじと見る。

 いやそんなことはあり得ない。七瀬先生にアホかと言われるだけで済まない妄想はぶん投げ、ほかを考えたがなんだろう。


 そんなセクハラに気づきもしない先輩は、足もとにカバンを置いた。それで気づいたが、筒に丸めた紙がはみ出している。


「あっ、それ」

「そうだよ。見嶋くんの考えたカフェの名前、ちゃんと入れたんだよ」


 見せないと言ったはずだが、先輩は筒を開いていった。小さく「じゃん」と効果音を付け、上下を持って見せてくれる。


「せせらぎ、ですね」

「うん。いい名前」


 A3の紙に、めいっぱい。芦野川の源流が描かれていた。パソコンで写真を印刷すると聞いたが、イラストだった。


「先輩、絵も描けるんですね」

「違うよ。写真からイラストを作ってくれるアプリがあるの」

「へえ、そんなのが。看板用のポスターには、このほうがいいかもですね」


 現実には薄暗かったけど、ポスターの絵はとても明るい場所に見えた。ここに斧を落としたら、たぶん金と銀の斧がもらえる。


「じゃあこれ、貼ってきて」

「えっ」

「意地悪したから」

「あらら、了解です」


 元通り、くるくると丸められたポスターは四枚。突き出された先を、両手でしっかりと受け取った。

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