第76話:ページの抜けないように

 それから。

 夏休みの間、ポニー先輩に会うことはなかった。声も。

 胸にすきま風が抜けるたび、チクチク痛む。だけどこれを耐えれば、先輩は自由だ。


 先輩の壊された心トラウマは変わらないから、教室へは戻れないだろうが。目に見えての妨害があるのとないのと、天地の差がある。

 などと偉そうに言っても、オレのやることも変わらない。フラッと部室へ行っていたのを、火曜と木曜に限定したくらいで。


 そうだ。おかげで、ばあちゃんと過ごす時間が増えた。あまり上手くはないけど、卵焼きと味噌汁は作れるようになった。

 オレと話していると、ばあちゃんが声を出して笑ってくれるようになった。面白いことなんて、なにも言わないのに。


 部室へ行った時は、もちろん先生とゲームをする。ばあちゃんのおにぎりと菓子パンを交換し、夕方までずっと。

 カバンにいつも、文集の原稿を持っていた。だけど結局、八月半ばという締め切りも触れないまま。


 面倒だったから。

 ではない。そんな頭脳労働をすれば、自分の頭の中がとっ散らかっていると気づいてしまう。

 だから、うっかり忘れたと言い聞かせた。


「明椿さん、久しぶり」

「お久しぶり、見嶋くん。と言っても先々週だったけど」

「まあね」


 八月二十三日。製本をする日の午前九時、部室へ集まった。ただし七瀬先生も入れて三人。

 言う通り明椿さんは、この前に一度だけ活動日に顔を出してくれた。オレとは違い、完成した挿し絵の版画を印刷するため。


 その時は本文のところが空白だった。今は文字で埋まり、文集の一ページとして完成している。

 テーブルにあるのは、当然にそのページだけでなかった。再生紙のひと山は、二百十枚。それが二十一個。


「合計で四千——」

「四千四百十枚」

「そんな枚数を先輩がひとりで……」


 以前に計算だけはしていた数字を、明椿さんのアシストで思い出す。

 現実の質量を見ると、なんとなく持っていたイメージとは迫力が違う。


 五掛ける四列。どの山もたった今揃えたように、はみ出しがなく。どの列も整然と、まさに碁盤の目。余りのひと山はご愛嬌だ。

 南校舎一階の印刷室から、北校舎三階まで。何回の往復をしたか考えると、大げさでなく泣きそうになった。


「運んだ半分は私だ」

「えっ? 大丈夫だったんですか」


 憮然と。していたか、いつものちょっと不機嫌な顔で分からない。

 地獄の釜の煮立つみたいな低音が、手柄を主張した。大量の紙に見とれるオレたちを尻目に、悠々と寝転びながら。


「二、三十分おきに、溜まったのを持っていくだけだ。文化祭までは計画通りさせるという約束もある」


 その理屈が通るなら、今ここに先輩がいても良かったのでは。なんて考えたのは、内緒にしなければ。

 先輩だけではあまりに酷なのを手伝ってくれた七瀬先生と、オレのないものねだりとは違う。


「なるほど。じゃあまあ、始めますか」


 自分勝手な気まずさで、なんとなく仕切ってみたりする。と、先生が睨む。


「おいこら、私も労え」

「ああ、はいはい。お疲れさまです」

「うん」


 重々しく頷く先生と、部員ふたり。テーブルの周りをグルグルとやるのは難しかったので、ひとりが七枚ずつの分担にした。

 まずは二十一枚重ねたものを、二百十部。これは目標の二百部に、予備を加えた数。


 さらにページの抜けがないか、三人でチェック。そしていよいよ製本だが、オレは表紙と裏表紙を前後に当てる係。

 これを受け取った七瀬先生が穴を空ける。最後に明椿さんが紐を通し、冊子の形に。


「弥富先輩もやりたかったでしょうね」

「……だね」


 表紙の係はすぐに終わり、オレも紐綴じに回る。この作業は、ポニー先輩が希望したものだ。

 同じことを繰り返すうち、明椿さんも口が滑ったらしい。返事の暗くなったオレを、ハッと見つめる。


「来年は一緒にやりましょう」


 無理に弾ませた声。この場にいるもうひとりから、励ましや慰めがあるはずもなく。オレも必死に笑顔を作り、「だね」と。


「そうしよう。絶対だ」


 一旦は口を閉じ、すぐに言葉を付け足す。もっと、いくらでも思い浮かぶ。

 最後には「あいつらのせい」となりそうで、やめたけど。


「ところで先生。飾り付けでもしようとされたんですか?」


 声が途切れ、しばらく。次の話題を提供したのは、また明椿さん。

 だがどうしてそう思ったのか、分からないのはオレだけでなかった。問われた先生も、「ん?」と手を止める。


「そこに脚立があったので」


 そんな物あったか?

 秘密基地ならぬ厨房スペースから半歩出て見回す。するとたしかに、反対隅へ立つ塔の脇へ銀色の脚立が。

 褒めるべきは観察眼か、記憶力か。どちらにしても凄いなあくらいに、作業を再開する。


「ああ。やろうと思ったが、重いのでな。お前たちのいる時に変更した」


 天井まで手の届くやつだ。よくも先生が、ここまで持ってこれた。

 明椿さんも同じく思ったのか「はあ……」と曖昧な返事。しかし手もとの作業が一つ終わると、あらためて言った。


「そうですね。せっかく来たんだし、できることはやったほうがいいですね」

「だな。私はそういうセンスに疎い。明椿なら、いい案があるだろう」

「そ、それはどうでしょうか」


 どうやら製本の後、カフェとしての装飾も行うと決まったようだ。今日の対戦の暇がないけれど、もちろん異存はない。

 その前に製本の仕上げ。作り上げた二百十部に、緑色のテープを貼る。


 こうして完成した文集だったが、感動に浸る時間はあまりない。なにせこの時点で午後三時を過ぎ、装飾の時間が圧迫されていた。


「今のうちに自分の文集を確保しておけよ」

「そうですね。後でと思っていると、忘れるかもしれません」

「うん、弥富の分もな」


 四人分。うち二部は、オレが。それぞれ文集を取ったところで、次の作業に移った。

 ここまでほとんど座っていたが、今度は動き回る。生徒会に布や紙を、それから客席用の机をもらいに。


 学校の備品や壁が、ついでに元ダンボールベッドが。クロスをかけるとカフェっぽくなるのは不思議だった。

 高いところは身軽な先生が受け持ち、脚立を運ぶのはオレばかり。明椿さんにやらせるわけにもいかず、文句はないが。


 いや本当に文句はない。四人揃えば、もっと楽しかっただろうと残念なだけだ。

 今年。文芸部の夏休みは、この日が最大のイベントという慎ましいものに終わった。

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