第72話:流れのもとは下流に
川ってものは、上流と下流がある。
どちらへ行くか、もうオレは迷わ——ないわけもなく。何度も。何度も。何度も、明椿道場の方向を振り返った。
車でなら十分もかからない距離が、歩くと一時間くらいかかった。
辿り着いたコンビニで、まずは水分の補給を。白く濁るペットボトルを逆さにしても、透けた看板は逆さにならない。
「ふう……」
恵美須病院まで来たはいいが、どうしよう。空容器をゴミ箱へ投げ込み、深呼吸と見せかけたため息を吐く。
近くに家があるとは限らない。茶髪女子のことだから、出かけている可能性が高い。
なにより、会ってどうすればいい?
ハードルの高さに、足が重くてたまらない。誰かテントを張ってくれれば、一生住み着きたいほど。
しかしここに、同じ方向へ歩いてくれる人はいない。背中を蹴り飛ばしてくれる人も。
だから、飲み物をもう一本買ったら歩き出そう。
——炎天下。手に入れた六百ミリリットルのブラックコーヒーは、すぐにぬるくなった。
それでも大事に、ちびちびと飲む。これがなくなるまでには、茶髪女子と会う呪いをかけて。
病院の表側を三十分くらい歩いたか。こう言ってはアレだけど、病院の経営者が住むような家は見当たらなかった。
じゃあ裏手か。
バス通りから、横道と呼ぶには広すぎる道路を山の手へ入る。
「あ……」
病院の真裏。三、四階建ての小さなビルが建ち並ぶ間へ、レンガ色の家を見つけた。
周りのビルを二つくらい建てられそうな、広い庭。住宅メーカーのチラシで見るような、洋風の建物。
生クリーム塗りみたいな壁に沿い、鉄の門扉にオレは吸い寄せられた。
これはアレだ。リモコン操作で、自動的に上下するやつだ。
インターホンも当然にカメラ付きっぽいけど、どこがレンズか見分けられない。
見るもののいちいちが高そうで、唖然としたまま呼び出しのボタンを押す。
「どちらさまでしょう」
上品そうな女性の声。茶髪女子のお母さんか、それともまた家政婦さんか。
そこで名乗ろうとして気づいた。まだこの家の表札を見ていない。
「あ、あの。見嶋といいます。えび——むつみさんのクラスメイトで」
サッと盗み見れば、間違いなく恵美須と表札がかかっていた。正確にはアルファベット表記で、金属を捻じ曲げたようなのだったが。
「ちょっとお待ちくださいね」
高価な機械だからか、通話の切れる音がしなかった。向こうの音も聞こえないし、切れているとは思う。
だがなんだか見られている気もして、ガチガチの気をつけで待機する。
門扉から玄関まで、十メートル以上。直接漏れ聞こえる音もない。
瞳だけを動かし、庭を眺める。明椿道場と違い、視線を遮る物がなかった。なんなら大きな窓越しに、おそらくリビングっぽい部屋の中まで。
天然の芝生が、あちこち茶色い。
夏は緑色になるんじゃないのか。そう気づくと、長く伸びた雑草がちらほら。庭の真ん中に据えられた花壇にも。
「お待たせしました」
歯切れのいい金属音をさせ、玄関の扉が開く。出てきたのは、全身真っ白な服の女性。
たぶんオレの母親と同年代で、まっすぐオレのほうに向かってくる。
「ほら、むつみ!」
「分かってる」
やっぱり茶髪女子のお母さんらしい。
門扉まで来たところで、娘のほうも玄関から顔を出した。オレを見て眉をひそめ、大きなため息を吐く。
「ごめんなさいね。私、これから病院に戻らないと」
「あっ、いえ。こちらこそ」
「ゆっくりしていってね」
自動の門とは別の、人ひとりが通れる門からお母さんは出てくる。胸の名札に理学療法士とあった。
微笑み、ぺこっと小さく頭を下げたお母さんは、車の気配なんて欠片もない道路の左右を見回す。
渡った目の前に、病院の敷地へ入るステンレスの門が見える。カードキーで解錠し、滑り込むように中へ消えた。
「なに?」
茶髪女子の声に振り返る。小さな門の支柱にもたれ、睨んでいた。
Tシャツと、生地の薄そうな長いスカート。なんとなく明椿さんとかぶって見える。
「ねえ、汗だくじゃない」
怒っているというより、汚い物を見る目が上下する。
自分の身体を見下ろせば、たしかに。汗でシャツが透けかけ、裾も片方だけズボンから出ていた。
「あっ、ごめん。恵美須さんの家、知らなくて。今まで探してて」
「わざわざなんの用?」
門を通せんぼするように、茶髪女子は腕組みで立つ。
住所も知らせていない、嫌っているクラスメイトが勝手に来るなんて、よく考えるとヤバい。
「ええと、その。変な話じゃなくて。謝りたくて」
「謝る?」
遅まきながら、シャツの裾を直した。タオルハンカチで、顔じゅうゴシゴシ拭いた。
それから腰を六十度曲げ、頭を下げる。
「恵美須さんの髪の件。本当にオレはなにも知らない。でも恵美須さんからしたら、オレが逆ギレしてると思ってもしょうがない。だから」
「そんなこと言いに来たの?」
くだらないと言われたのかと思った。しかし声の感じがちょっと意外そうというか、嫌悪感とは違うものだった。
様子を窺いつつ、気をつけに戻る。
「え、怒ってないの?」
「変な奴とは思ってるけどね。髪は、あんたじゃないんでしょ」
鼻息が、呆れたと聞こえた。だがそれで、茶髪女子は普通の顔に戻る。怒っても笑ってもない、プラスマイナスゼロの表情に。
「そうだけど、え?」
「ノリに言ったんだけど。伝わってないみたいね」
「ノリって、明椿さん?」
面倒げに、「そう」と頷く。わけが分からない。
オレの頭の中は、え? え? と疑問でいっぱいになった。
「いつだったかな、少し前にね。どういうつもりって話したの。そしたらあの子、あんたが悪くないことだけは分かったって」
ごくっ、と唾を飲む音はオレ。知らない間に、なにか起きていたらしい。
「あんたと、あたしたちと。態度を変える理由もないし、できないって。でもこのままあんたを無視するなら、おかしいのはあたしたちだって言ってた」
「明椿さんが……」
一つ間違えば、オレと同じ。いやポニー先輩のような立場に自分を追い込んでしまう。
そんなことをやらせていたなんて。
悲しいような、腹の立つような、吐き気を伴うこの気持ちはなんだろう。
「ああ。あんたが同じこと言ったら、もっとひどいことになってたと思う。あれはノリだから、相手があたしだったから」
鼻に引っかけた笑い。きっとバカにされた。でも少しだけ、気分が落ち着いた。オレでは同じことができないと聞かされて。
最低だ。
「商店会の付き合いでね、昔から知ってるの。好きか嫌いかで言ったら、苦手。あたしをおだててくれないんだもん」
また、感情が消える。ポニー先輩と似た背格好で、七瀬先生みたいな仁王立ち。
可愛いだけに、迫力が半端でない。
「あのノリがそこまで言うなら、まああんたじゃないんでしょ。だからってさっきも言ったけど、あんたを好きにはなれないけど」
「うん」
うん、ってなんだよ。ほかに言わなきゃいけないことは、山ほどあるだろ。
おそらく茶髪女子も同じことを考えた。少し待って、オレの声が途切れたのをたしかめてから、「はあっ」と息を吐く。
「じゃあね。心配しなくても、おとなしくしてたら普通に戻るんじゃない? 今年は無理かもだけど」
用が済んだならとっとと帰れ。帰らなくても自分が帰る。という風に、乱暴な手つきで門が閉じられた。
オレが気に入らないことに変わりはないから、執り成すまではしないって話らしい。
「あっ、待って」
それはいい。
どうでもいい。明椿さんのことは気になるけど、オレに関しては。
今はそれより、聞かなきゃいけないことがある。
「まだあるの?」
「ごめん。あのさ、環境委員の人のことなんだけど。二年生の」
既に向けられていた背中が、また向こう側へ。イライラの滲む顔に思わず謝ったが、ありがとうと言うべきだった。
それはともかく、ここへ来た本当の理由を告げる。しかし茶髪女子はイライラを強め、首をひねる。
「誰の話? 環境委員の上級生に知り合いなんかいないけど」
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