第70話:タイムアップ
夏休み。数えられるくらいの雲が浮かぶ空。もう少しで昼食という時間の学校は、どこも同じに見える。
と言ってもオレには、通った中学くらいしか比較対象がないけど。
いつになったら曲を奏でるんだ、って言いたくなる吹奏楽部の練習。校舎越しにグラウンドから聞こえる、運動系クラブの気勢。
誰の姿も見えないのに、どこからともなく届くささめき。
そういうものの全てが。のんきに日常を過ごす声が。先輩を貶めて聞こえた。
分かっている。ほとんどは、弥富鈴乃という人が図書室登校をしているのも知らない。
だけどそうやって知らないでいるから、先輩が救われないんじゃないか。
——なんてことはないのも知っている。
これが誰かのせいというなら、先輩に嫌がらせをする連中以外にはない。
「……七瀬先生」
部室の扉を開ける。
鍵を借りに行かなかった。鍵は開いていた。入り口から、誰の姿も見えなかった。
名を呼ばずにいられなかった。
階段を上った程度で、なぜか切れた息。肩を揺らし、喉を震わせ、返事を待つ。
早く。はやく。
心の中で十数回も唱えたころ、ソファーの背に細く小さな指がかかる。
「暇だな、お前も」
あくび混じりの低音に、ほっとした。
後ろ手に閉めた戸が、思いのほか大きな音を立てる。慌ててもう一方の手を添えるが、既に鳴った音は縮まない。
気を取り直し、四歩を駆け足で。カバンを放り投げ、テーブル上へ乗り出して先生に向き合う。
「どうしたらいいですか。教えてください」
先輩が大変なことに。たぶん犯人はあいつらで。詳しいことはなにも分からなくて。
主語を選びきれず、伝わらないと分かっていても呻いた。
両手をつき、なおも顔を突き出す。離れろと言われても、今は聞き入れられない。
「先生?」
獲物を狙う猫みたいな眼が、じっと見つめ返す。なにを教えろと言うのか、まずは問い返されるはずなのに。
沈黙のまま。ちょっと、いやかなり機嫌の悪い視線がオレを睨む。
なんで?
どうして先生までが、オレを責めるのか。なにも言われないのに、そんな気分にさせられた。
しばらくの後、鼻息が激しく噴き出された。その勢いで、ではないだろうが、先生はソファーを立つ。
なにをするのかと思えば、ジョイステ3を持って戻る。
こんな時に? と思うのはオレの勝手だ。先生はまだ、なにも知らない。
「あの。今日はゲームは」
「まあ座れ」
電源を入れた手が、ソファーの座面を叩いた。弾けるような音に、オレの背中がビクッと縮まる。
おとなしく従うと、先生はすぐにキャラクターを選んだ。今日は格闘ゲームらしい。
でもいつもの主人公でなく、火を吹いて戦う変則的な動きのキャラ。
どうも一戦やってからでないと、話を聞いてもらえないようだ。雰囲気を察し、仕方なくオレも中華服の女性を選ぶ。
「ファイト!」
ゲームの音声が、試合開始を告げる。
勝てないまでも、少しはオレも慣れてきた。無敵時間を持つ技を使い、敵との距離を縮めようとした。
が、動けない。
今日の先生のキャラは、このゲームで最長の射程を持つ。飛び道具でなく、腕や脚を伸ばしての直接攻撃が。
無敵時間の前に叩き落とされ、その場に釘付けにされた。
一歩も動けないまま、十秒足らずで一本取られた。
二本目も全く同じ。今度はジャンプしようとしたが、動けないのだからなにも変わらない。
どうも先生が最も得意なのは、実はこのキャラクターだ。しかし負けても、出し惜しみされたことも、悔しいと思わない。
それより今は、話を聞いてほしい。勝負はついたんだから、いいだろう。
と思うのも、やはりオレの勝手のようだ。先生は容赦なく、二戦目をスタートさせる。
三戦目も、四戦目も、こてんぱんに叩きのめされた。
「先生、聞いてください」
これはもうゲームしながら話すしかない。手を抜けば怒られそうなので、もちろん画面からは目を逸らさない。
喋るなとも言われなかった。
「弥富先輩が」
「知ってる」
五戦目。オレは動けなかった。
オレの操作する中華服の女性がでなく、オレ自身が。
「先日。明椿の家から、お前たちを送っただろう。あの時のコンビニエンスストアに、弥富のクラスメイトがいたそうだ」
何度も、何度も、オレの分身が崩折れる。その姿が、ポニー先輩にしか見えない。
「問い詰められ、文芸部に入ったと話したらしい。文化祭を最後に退部すると、おととい電話があった」
凍えたように、吐く息が震える。
コントローラーを持つ手に、顔を埋めた。
「なんで……」
と言うのがやっとだ。
「なぜそこにいたか、分からない。あれらの家と、違う方向なんだが」
そうじゃない。オレが聞きたいのは。
いつもと変わらない、先生の声。どうして察してくれないのか、悲しくて泣けてきそうだ。
「タイムアーップ!」
何戦目だか。時間切れ引き分けの声。
テレビ画面にコントローラーを投げつけたかった。けれども堪え、声を絞り出す。
「なんでオレには、教えてもらえないんでしょう」
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