第64話:試し
五月が終わり、六月に入っても、目に見えて変わることなんかない。
ゴールデンウィークの時点で真夏の気温と言っていたのに、まだまだ暑くなるとか。合わせて制服が半袖になったとか、強いて言えばそれくらい。
「できた……」
そんな中、新しく生まれた物がある。
六月最初の日曜日。三人それぞれの原稿を、明椿さんの家のプリンターで印刷してもらった。
と言ってもオレは手書きで、またたく間に先輩が打ち込んでくれたんだが。
ひとりにつき、十一ページ。原稿用紙で十枚分の文章と、半ページの挿し絵が二ヶ所。それから写真が二ページずつ。
前書きと目次、奥付けを加えれば四十二ページ。二十一枚のコピー用紙を一枚ずつ、三人で半分に折る。
それを表紙と重ね、ずれのないようにクリップで留め、千枚通しで穴を空けた。
ホチキスでも綴じられたけど、あえて紐で綴じる形を選んだのは先輩だ。
薄い紙を縒って作られた、髪の毛みたいに細い綴じ紐。見た目と違いかなり丈夫で、緩まないようギュッと力を篭めた。
A5サイズの表紙と裏表紙は、白。つまらないかもしれないけど、これはオレが選んだ。
綴じた部分に貼る製本テープは緑で、明椿さんのリクエスト。
「凄い。できたよ!」
「紙を綴じて、テープを貼る。それだけで、立派な本になるんですね」
オレたちの。文芸部の文集が、本の形になった。ポニー先輩が手を鳴らし、明椿さんはオレの持つ冊子をまじまじ見つめる。
立派ってほどの中身かは、特にオレの文章に自信がない。
そういう意味でないのは分かる。
でも三人で互いの内容をたしかめながら、一応の試作を迎えた。間違いなく、女子ふたりの内容にオレは遠く及ばなかった。
「うん、立派だよ」
括弧書きで、オレを除くと思ったのが伝わることはなく。明椿さんは満足そうに笑った。
「だよね。明椿さんの絵が凄くきれい」
黒い大きなテーブルを、先輩は踏み越えてきそうだ。
テープを貼ったからと、いつまでもオレが持つ理由はない。先輩の前に文集を滑らせる。
「そう思ってもらえるなら良かったです。自信がないわけではないですが、気に入ってもらえるかは別なので」
「気に入るよ! 題名も絵も、明椿さんの上品さが凄く出てる」
挿し絵が明椿さんの担当なので、自然と表紙絵もやってもらった。
意外だったのは、絵の描き方。良し悪しの話でなく、明椿さんが見せてくれたのは版画だった。
美術部というから水彩や油絵を想像していたのだけど、どうやら専門は彫刻らしい。
一枚の板に無数の彫り跡が、四つの漢字と人物を描き出す。制服の男子がひとり。同じく女子がふたり。
三人、背中合わせ。つまり誰も、同じ方向を見ていない。別の場所に向け、最初の一歩を踏み出そうとした。
行く先へ、それぞれ自分の影が伸びる。三人の後ろに、小さな太陽がさんさんと照っているから。
「ですね。
先輩の賛辞に乗っかる。
もちろんお世辞ではなかった。素人と比べても褒めたことにならないが、オレには一生かけたって描けない綺麗な絵だ。
明椿さんは俯き、曇ってもない銀縁メガネを拭き始めた。
「ね。一期一会って言った時、もうイメージしてたの?」
文集の名前を決めたのは図書室だ。その時にこの案を出したのも明椿さんだったが、先に用意していたのは没案になっていた。オレと先輩のも。
だからあらためて、その場で考えた言葉。
「いえ全然。決まってから、やっぱりこの文芸部を表したいと思いました。でも今じゃなくて、これから先を」
「ああ」
思わず、声が漏れた。というか最初は、自分の声とも気づかなかった。
「ああ、だよね。ほんと、こんな風にならなきゃね」
先輩が頷く。ってことはオレが言ったのか、と。それほど納得させられる絵だ。
版画だからか、陰がある。単に仲良しこよしという空気でなく、描かれた三人の未来に重みが見える。
先輩の言ったこんな風って、どんな風だ?
オレの目には、必ずしも明るくない道をたったひとりで歩くのが人生。みたいに思えた。
だとしたら重苦しいが、間違っていない。目に見える形にされて、ゲップが出そうなだけで。
先輩と、明椿さんと。今は隣り合う道が、段々と遠く離れていく。彼女とか奥さんとかにならない限りは。
本当に全く、ああその通りだ。
「弥富先輩こそ、オオサンショウウオを助けてくれる誰かがいたら。もしも、の創作部分がよく考えられていて、体験記というより小説を読んだ感覚です」
「褒められちゃった? ありがとう」
ルの字の眉にシワを寄せた先輩の、控えめな笑い。
明椿さんが褒めたのはよく分かる。言う通り、面白い短編小説を読ませてもらったとオレも思う。
大まかには、オオサンショウウオよりも大きな誰か。たぶん人間が助けようと手を伸ばす。
でもサンショウウオは人間を疑い、作ってくれた出口を見てみぬふりする。
寿命か空腹か。とにかくいつか死にそうになって、岩から顔を出す。が、もう芦野川に同族は残っていなかった。
という話だ。
直接的なことは書かれていなかった。先輩だけでなくオレも明椿さんも、一人称を私で統一した文章。
文集のどこを見ても、誰が書いたか分からない。学年も性別も。一緒に作ったオレたちだけが、弥富鈴乃さんが書いたと知っている。
生き物の激減した芦野川。
閉じ篭った岩の中から、出るに出られないサンショウウオ。
なにを責めるでなく、文章と写真からは見てきた現実が知れる。
先輩を知らずに読んだら、どう感じただろう。豊かな自然が失われて残念だな、みたいな薄っぺらさを?
いやたぶん、恥ずかしくなった。誰がオレのことを書いたんだ、って。これは先輩自身と知っていたから読めた。
岩から出る方法はあるのに、自分の問題でそれを使えない。自分への怒りと、それでもどうもならない哀しさと。
だから先輩は、こんな風にならなきゃと言ったのかもしれない。
「試作としては、十分ですよね」
「そう思うよ。明椿さんは?」
「私もです」
才能ある女子ふたりが、視線を合わせて頷く。それなら印刷業者さんに発注する可能性はないと確定だ。
だがまだ量産には入れない。
「まだ慌てて刷らなくてもいいけど、どうする?」
「ええとオレ、文章を直そうかな」
「あ、私ももう少し挿し絵を直したくて」
手抜きをしたつもりはなかった。しかし不完全燃焼のような、モヤモヤした気持ちがあるのもたしか。
いくら手を加えたってなあ。と諦めたつもりだったが、やはり納得がいかない。
「うん、気の済むまでやろうよ。文化祭の直前は印刷機が使えないかもしれないから、八月半ばまでかな」
その時になっても、気が済まないかも。だけどギリギリまで足掻いたと、言いわけくらいはしようと思った。
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