第63話:過ぎゆく時間の使い方
役割り分担をして、とりあえず打ち合わせの目的は達した。先輩のスマホを覗くと、まだ三時過ぎ。慌てて解散する時間でもない。
「すみません、ちょっと様子を見てきますね」
「ああ、忙しいのに悪いな。我々は退散するとしよう」
自分のスマホを見た明椿さんが、ちょっと急いた感じで席を立つ。
土日のどちらか、ほぼ必ず道場の予定があると言っていた。だから本当は、明日の用意をしなければいけないんだろう。
「すぐ戻ってきますから。お客さまを急かせたと知れたら、叱られます」
「そうなのか」
自分も腰を上げつつ。ついでに言うと、真ん中に残っていたお菓子をポケットに押し込みつつ。七瀬先生も腰を上げかけた。
しかしむしろ困ると言われ、ふかふかの座布団にまた座った。
「そうだ、お前たち。文化祭の活動申し込みは、夏休み前が締め切りだ」
明椿さんが襖に隠れてすぐ、自分の湯呑みへ急須を傾けながら先生は言った。
「分かりました。ちょっと様子を見て、早めに提出します」
「アホか、ぎりぎりまで出すんじゃない」
「ええ?」
実行可能か見極めてから出す、と百点の解答だったはず。
それなのにどうして怒られた?
学校の先生とは、とにかくなんでも早く。後回しにするなと教える生き物だろう。
「津守先生が追加の条件を出したのは、お前が目標を達成しそうだったからに決まってるだろうが」
「ああ……」
あっさり納得した。
しかし同時に、部員の確保できたのを七瀬先生が漏らしたってことじゃ? とも思ったが。
まあ普通はこうなると思わないし、津守先生が自分で調べたのかもだ。言わないでおいた。
それから結局、明椿さんが戻ってきたのは、およそ二時間後。銀縁メガネを振り飛ばしそうなくらい、恐縮して頭を下げていた。
「お客さまを放ったらかしですみません」
「そう言ってくれるな。明椿の親切に乗じたのは私だ」
「そうだよ。出してもらったお菓子も片っ端から食べちゃったし」
告発するつもりではなかったのに、主犯の教師から睨まれた。
家政婦さんが次から次へ持ってきてくれたお菓子が、一つも残っていないのは事実じゃないか。
「そうそう。私は楽しかったから、明椿さんをのけ者にしたみたいでごめんね。またお話させて」
先輩の心遣いに満ちた言葉が染みる。おかげで明椿さんも「ぜひ」と気を取り直し、オレたちを見送った。
これがたぶん、午後六時前。外はまだ明るく、送ってもらうほどじゃなかった。しかし七瀬先生がついでと言うので、車に乗せてもらった。
「見嶋くんのおかげだよ」
「なにがですか?」
「うーん、色々かな」
助手席の先輩が、振り返ってまで言う。問い返したものの、なんのことかはたぶん分かる。
明椿道場で、この車内で。先輩は七瀬先生と楽しそうに語らう。
話す中身はおいしいお菓子だったとか、商店街に新しい店ができたとか、大した話題じゃなかったけど。
気兼ねなく先生と話せることが、先輩には貴重だ。そう思い、話しかけられない限りオレは黙っていた。
「気をつけてな」
「すぐそこですよ」
土原学園を行き過ぎ、海の方向へ。およそ二十分くらい走った辺りで、先輩は車を降りた。
明椿道場とはまた違う、古い町並み。県営アパートとか、黒い壁染みの目立つ家とか。
そういう中にぽつねんとあるコンビニの駐車場へ先輩を置き、また車は動き始めた。
ふと、周りより頭一つ高い建物が目に入る。三階、いや四階建てで、横に長いビル。
屋上に恵美須病院と看板があった。先輩が見えなくなって、まだ数十秒しか経っていない。
きん、と耳の奥で。なにか固く縮こまる感じがした。それはたとえば氷の塊で、背骨を伝い、胸と腹の底を凍えさせた。
背すじにまで冷たい風が吹き始め、それなのに目を逸らせない。
せめて口もとに当てた手へ、自分の息を吹き込んで温める。しかし震えた喉が、そんなことも満足にさせてくれなかった。
「どうした、腹でも痛いのか」
「——いえ、大丈夫です」
どうやって気づいたか、先生の声で我に返る。ほうっと深呼吸をするうち、病院は遥か後ろへ遠ざかった。
「洩らしそうなら早く言え。コンビニかガソリンスタンドで置き去りにしてやる」
「大丈夫ですよ。先生じゃあるまいし」
教科書通りの安全運転。先生が後席のオレに振り向くことはない。
顔が見えないせいか、これくらいの冗談を返してもいいように思った。
「そうか」
返事はそれだけ。笑いも怒りも、特に感情を意識することはできなかった。
だからオレが萎縮したとかもない。それきり、話すことが思いつかなかった。でも今はそれでいいんだ、と不安に思うこともなくなった。
「じゃあな」
「ありがとうございました」
ばあちゃんの家の前。お礼を言い終える前に、先生は車を発進させる。
きれいに磨かれた、真っ白の軽自動車。内装はどこも日焼けで色が薄くなっていた。いかにも古そうだったけど、軽快なエンジン音で走り去る。
ポニー先輩との会話で、先生自身の車と言っていた。それにしてはクッションとか、眠るのに必要な物がなかったけど。
まあ自分が運転するのに必要ないか。
それから。
週が明け、当たり前に学校へ通う。授業はそこそこ、昼と放課後は部室へ。
毎日が文化祭の準備で大忙し、とはならなかった。
先輩はレシピ作り。美術部でもある明椿さんが挿し絵。文集のレイアウトはオレ、と完全にやることが別々になったから。
もちろん時々は図書室に行き、放課後の部室で明椿さんと相談することはあった。
だがそれぞれの原稿を書き上げるまでは、基本的に個人の作業だ。
「おい」
「なんでしょう」
放課後の部室に、控えめな音量で流れるのは対戦のBGM。
「そろそろ一本くらい取らないか。サンドバッグ相手も、いい加減飽きた」
「今日は二本取ったじゃないですか」
「アホか。私が菓子を開ける間の、反則だあれは」
ゲーム仲間——ではなく文芸部顧問と。だらだらとした時間が生温くて心地いい。
教室にいれば永遠にも感じる時間が、過ぎてみればあっという間に思う。そんな調子で、日々は過ぎていく。
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