第61話:風呂敷を広げよう

 誰も次に言うことがなくなり、目を合わせたままの沈黙が数秒。急に先輩が自分の頬に触れ、「あっ」となにか気づいた風に小さく叫ぶ。


「明椿さん、お手洗い貸してもらえるかな」

「もちろんです」


 大でも小でもないのは、オレにも察せた。別に顔を洗わなくても先輩は可愛いですよ、と余計なことを言わない辛抱もあった。

 部屋を出る女子ふたりを、名残惜しく見つめるくらいは許してほしい。


「どうもお前は、女の前で格好をつけたいようだな」

「えっ、そんなことは」

「照れるな、褒めていない」


 襖の閉じてすぐ、残る先生がいつもの目で睨む。照れたけど、褒められたと思うほどバカじゃないんだが。


「しかし、けなしてもいない。いざという時、強がりも言えんよりはいい」

「はあ」

「ちょっと不思議に思った。お前、女に絡んだことでいい記憶がないだろ。それでどうして女好きに育った?」


 うーん。おおむねの言い分には、そうですねと答えるしかない。

 でも一つ、再確認していいですか。あなた、学校の先生ですよね?


 どうも酔っ払った親戚のおじさんに絡まれている気分だ。

 七瀬先生ならこんなことも言うだろうし、まったく不快でもないけれど。というか、言わなかったらと仮定したほうが想像できなかった。


「そんなことないですよ。たしかに嫌なことも多かったですけど」

「上回るほどのなにかがあったのか」

「言っても、そんなこと? って思われるかもです」


 中学でのトイレ前事件を筆頭に、女子を敬遠する気持ちはある。まあ今となっては、オレが考えなしだったと笑える部分もあるが。


「小学一年の運動会で、かけっこに出て転んだんです。すり傷だったけど、派手に流血して棄権になりました。でも救護係が六年生のお姉さんで、『泣かなくて強かったね』って。その日は楽しかったです」

「それだけか」


 おい。

 些細なことと自覚してるが、きちんと前置きしただろう。そんなことと思われそうってのは、思うなってことだよ。

 なんだか悔しくて、ほかになかったっけと思い出をひねり出す。


「ええと、中学の時。修学旅行でオレだけはぐれて、迎えに来てくれたのが教育実習の女の先生でした」

「それだけか」


 くっ、まだ言うだと?

 仕方なく、フォークダンスで女子の先生としか組めない事件や、バレンタイン義理チョコ没収事件までも披露する。

 それなのに先生は変わらず。いや細まった冷めた目で、「それだけか」を繰り返した。


「……ええ、この程度です。オレなんか」


 心の片隅が寒くなった。体育座りで膝を抱え、顔を伏せる。と、「ふうっ」なんてため息が聞こえた。


「大したことなくてすみません」

「アホか、なぜ拗ねる。私は、それだけかと聞いた。そんなことか、とバカにしてはいない」

「ええ? ほかにないのかって聞いてるんですか」


 あったと思う。どれも小さなできごとで、人に話せるほど正確に思い出せないけれど。


「うーん、すぐには。思い出しときます」

「いやいい。私の言いたいのは、背伸びも加減を間違えれば怪我をするってことだ」

「そんな話でしたっけ」

「そんな話だ」


 首を傾げても、説明の追加はない。なんだろうなと反対に首を傾けたところで、廊下から足音が聞こえた。

 ポニー先輩が襖を開け、先に明椿さんが部屋に入る。その手には大きなお盆があって、お茶とお菓子、湯気の上がるおしぼりが載っていた。


 それからすぐ、対策会議となった。先輩はいつも通りの控えめな元気を取り戻した。七瀬先生は分けられたお菓子をあっという間に食いつくし、オレの分を恨めしそうに見つめる。


「では問題になる点を確認しますね。文化祭の演目になるような催しとは、模擬店でもいいんでしょうか。それなら文集を販売するだけの窓口でもクリアになります」


 顔の真横に手を上げ、明椿さんが尋ねる。顧問でも部長でもないのに、堂々とした議長ぶりだ。


「模擬店でいい。しかし演目になる、とは案内のパンフレットに記載されること。明確な基準はないが——最低限、一つの教室を有意義に使う程度だろうな」

「それは社会科資料室でも?」

「構わんはずだ」


 先生との会話を、ポニー先輩がペンギンのノートに書き留める。少し省略するだけで、発言のほとんどをそのまま。

 それでも小さく丸い字は可愛らし、いや読みやすい。


「では次です。二百部という数字は、どこから出てきたんでしょう。文芸部が盛んだったころに前例があるとかでしょうか」


 ああ、たしかに。突きつけられて、そういうものと受け入れていた。

 しかし嫌がらせに明確な理由なんかないだろうし、どうにか交渉の余地が——


「前例は知らん。例年、土原学園の文化祭に延べ六千人が入る。対して金銭の動く演目の利用率は低いもので七、八パーセント。その半分くらいは達成して当然、だそうだ」


 ないのかよ。

 いや、きっちりした理由があるならしょうがない。数字に弱いオレにはどの程度か実感しにくいけど、なるほどと思う。

 でも明椿さんは違った。「そんな」と直ちに否定の声を上げる。


「お祭りで食べ物を買うのは、むしろ期待して来る人が多いです。でも文集は違います。焼きそばやフランクフルトを売るようにはいきません」

「だな。迷う相手の選択肢に入り込むのと、意欲がゼロの相手に購買動機を与えるのは違う」


 さっきよりも深く、なるほどなあと。オレが縁日に行く時、頭には食べ物ばかりだ。お祭りと関係ない本の屋台なんかがあっても、きっと買わない。

 ちらっと覗いて、よほど興味を覚えれば別だが。高校生の作った文集では、ちらっとさせるだけでも難しい。


「難しいねえ」

「ですね、先輩」


 発言のない者同士、見つめ合う。後ろ向きでも、通じ合うのはいいことだ。必死に考える先輩は、この上なく可愛いし。


「たくさん買ってもらうには、手分けして売り歩くのがいいのかなって思ったの。でもそれじゃあ演目に数えてもらえないし、私は役に立たないし……」


 先輩の声が縮こまる。シャーペンを持つ手も、ぷるぷるとノートにミミズを描く。

 表立って文芸部と名乗れないのでは、戦力になれない。そんなことみんな分かってて、気にする必要はないのに。


「大丈夫ですよ先輩。先輩の分は、オレがまとめて片付けます。どうにかなりますよ」


 苦しそうに搾り出した笑み。それは悪いよとか、遠慮するのも遠慮している。

 先輩が自分を責めたって、なにも話が進まない。だからなにも言うまいと考えたのが、手に取るように分かる。


 なんでこんないい人が、苦しまなきゃいけないんだ。文化祭って、楽しいもんだろ。

 現に文集のネタ探しは楽しかった。楽しいことを楽しく形にして、楽しく誰かに読んでもらう。

 どうしてそうならないのか、原因はなにか。当てのない怒りが沸く。


「お前の大風呂敷はともかく、どうにかなる。弥富、できないことよりできること。やりたいことを考えよう」

「大風呂敷って」


 先輩を慰めるのに、オレを下げる必要はないと思う。議論を進めない、案も出さない。言われて当然ではあるが。


「なにか全部まとめて解決する方法がないですかねえ」


 と言ったのは、大風呂敷と言われたから。ばあちゃんが風呂敷を使うのは、魔法みたいで面白い。

 四角い物も丸い物も、大きな物も小さな物も、どんな中身にも合わせて包める不思議な布だ。


「全部まとめて……」


 フッ、と。目の前に一瞬の光が走る。なにか見えた。なにか分からないけど、きっと大事なことが。


「どうしたの?」


 先輩が問い、明椿さんもオレの顔を覗く。

 待て、待ってくれ。ふたりの顔をじっと見返したいのはやまやまだが、ほんの少しだけ。

 視線を逃したのは、七瀬先生のほう。まばたきもせず、鋭い視線でオレの背すじを伸ばしてくれる。


「あ」


 なんだ、そこに答えはあったんじゃないか。オレの見ている、見てきたことが、そのまま答えだ。

 実行すればうまくいくって保証はない。でもオレには、唯一の答えとしか思えなかった。


「先輩、明椿さん。先生、答えは全部ですよ。全部まとめてやっちゃえばいい」


 浮かれて笑う自分に気づいた。

 みんなにはどう見えたか。たぶん、ほんの少し、気持ち悪かったかもしれない。


 だけどそれでも「どういうこと?」と顔を寄せてくれた。誰にも内緒の、世界の真理でも聞くように。

 もちろんオレも、もったいぶりはしない。楽しい文化祭を迎えるために、大風呂敷の中身を披露した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る