第60話:四人の意思

「津守先生だが……」


 言葉を途切れさせた先生は、ポニー先輩を見つめる。鋭い眼がさらにキュッと細められ、困ったような迷惑そうな感じで。


 見てはいけないものを見た。たぶんオレの心臓は、そう思ったんだろう。急激に、強く早く動き始める。

 でも先輩は気づかなかった。両手を胸に抱え、思い詰めた顔でテーブルの真ん中を向く。


 二つか三つを数える、短い時間があった。

 フッと表情がほどけた。先輩でなく、七瀬先生の。白い歯を見せイタズラっぽく、涼やかに笑いもした。


 ——あれ?

 初めて見る顔だけど、とても先生らしい。ただ、それだけでない気持ちもなぜか湧き上がる。

 不思議なことに、懐かしいと思った。

 すうっと、胸の高鳴りが治まっていった。


「何度か直に、お叱りをいただいたことがある。なぜ協調性を持たないのか、なぜ自分の判断に逆らうのか。具体的になんの件かは教えてもらえなかったが」


 先生は元通り、表情を引き締める。でもこれは嘘だとオレには分かった。少なくとも、判断に逆らうとはポニー先輩の件だ。


「私の嫌われる決定的な理由は聞いていない。断片を繋ぎ合わせると、やることなすこと気に入らんと仰りたいようだ。私は私を気遣いのできん人間と知っている。だから納得しているが、お前たちに及ぶのはまた別の話」


 迷惑をかけて申しわけないと、先生はまた頭を下げた。おもむろに上がった顔は、いつものようにちょっと不機嫌そうだ。

 いくらか待っても、もう次の言葉は出てこない。するとオレの隣で「あの」と控えめな声がした。


「津守先生が私怨で七瀬先生を攻撃していると理解していいでしょうか」


 小さく手を上げる明椿さんに、先生は「いや」と首を振る。


「教師内で持ち回りの義務がある。しかし私は、しなくて良いとなっている。宿将として気に入らんだろうし、やるなと言われてもやるのが大人と言われればぐうの音も出ない」

「津守先生の言い分は妥当、ということですか?」


 手を上げたまま、間髪入れずの問い。ここは裁判所だったか? 明椿さんが萌え声でなければ、きっとオレは泣きべそをかいた。


「フッ、厳しいな」

「あ、いえ、すみません」

「いや、いい。きっちりしているのは、明椿の美徳だ。しかし答えが難しい。津守先生の弁は間違っていないが、妥当と言えば困る面もある」


 草がしおれるみたいに、明椿さんの細く長い腕がテーブルの下へ。それでも凛と、先生の言葉に頷いて見せる。


「私の義務を外すのは校長だ。それを私が無視すると、咎めは私でなくほかの先生たちに向く。なぜやらせるのか、と」

「七瀬先生のご家族が、そう指示しているんでしょうか」

「忖度という奴だな。だから私がやめてくれと言っても通じない」


 楽をさせろと誰も言っていないのに、面倒な仕事をさせるなと具体的な指示がある。

 根拠が思い込みだから、説得のしようがない。どこかで聞いたような、扱いの厄介な話だ。


「では七瀬先生がご家族に言って、校長先生の独断をやめていただくとか」

「校長は無能だ、と告げ口するのと同じになるな」

「あ……」


 息を呑んだ口もとを、明椿さんは手で塞いだ。

 告げ口の結果がどうなるか分からないが、マイナス評価になれば校長は困る。定年を間近に、まさかクビにはならないと思うけど。


「分かっている。こうなる前に、最初から私がきちんとしていれば良かった。しかしむしろ、辞める口実になると期待していた。お前たちには、ふざけるなと言われるだろうが」


 家庭、というか家業の事情。田村卓哉のこと。

 事前にいくらか聞いていたオレは、立ち位置に納得できない先生の気持ちが分かる。たぶん一つずつをどうこうして済むわけじゃない。


 先輩と明椿さんは聞いていないはず。現にふたりとも、なにか言おうと口を動かしかけながら声が出ないでいる。


「私にとって教師を続けることや、部がどうこうは拘るところでない。しかし文芸部は、お前たちのものだ。これだけ無茶を言われて、それでもと言うなら。私もできるだけのことをしたい」


 向けられた目に先輩は、「私は……」までしか答えられなかった。

 次に見つめられた明椿さんも必死になにか考えているようだけど、やはり言葉にならない。


 となると残るはオレで、当たり前に三人の視線が集まった。

 おそらくこれは、こっち見んなと言ったっていい。でもバカなオレは、無視しないでくれてありがとうとか考える。


「なんていうかオレも、文芸部なんてどうでもいいんです」


 なにか言わなきゃ、と思いついた言葉をそのまま口に出した。悲しそうに俯いていく先輩の視線と、明椿さんの拳が握られたのにビビる。

 おぼろげにも頭にあった言葉が、パンッと弾け飛んだ。そうじゃない。うまく言えないけど、そうじゃない。


「あっ、いやっ、ええと。その——」

「アホか、落ち着け」


 慌てて掻き集めようとしても、なにがなにやら。

 でもドスのきいた声で深呼吸をしてみると、とっ散らかった脳みそがスッキリと覚める。


「オレは、です。七瀬先生の部活に入りたいと言いました。それがお料理研究会でも、イースポーツでも、なんでも良かった。先輩と明椿さんが加わってくれても同じです。文芸部をじゃなく、この四人の居場所を守りたい」


 これはオレだけの思い込み。社会科資料室に抱いた、勝手な期待だ。押しつけることはしない。

 と、自分に向けた建て前をぶち上げた。ひとりでもやってやるぜ、みたいな顔を必死に作って。


 本心は、先輩と明椿さんが見捨てるはずないよなとすり寄ろうとしている。

 力んだ目もとから、涙がこぼれそうだ。こっちはひとりなのに、三人がかりはやめてほしい。


「私もそう思う」


 力強く。銀縁メガネをかけ直すほど、明椿さんは頷いた。


「あれもこれも欲張ったら、なにもできない。目の前のことを一つずつ、半端をしないって決めたの。今、私がやりたいのは文芸部のこと」

「うん、聞いたよ」


 オレも頷き、また明椿さんも頷く。三回繰り返して、互いに失笑した。

 だけど先輩を見ると笑っていられない。じっと考え込んでいると思ったら、ぐすぐすと鼻を啜る音がしていた。


「せ、先輩?」


 思わずテーブルに顔をつけ、覗きこんだ。頬を膨らませ、唇を噛み、それ以上をどうにか堪えているらしい。

 オレが見ているのに気づくと、手のひらでゴシゴシと顔をこする。小さな子が意地を張ってやるみたいに。


「ごめんね。私、ここにいていいのかと思って」

「いいに決まってますよ! ていうか、いてください、いてほしいです」


 不格好なオレを横目に、明椿さんがハンカチを差し出す。受け取った先輩は、ギュッギュッと力任せに目もとへ押し当てた。


「ごめん、私もハンカチ持ってるのに」

「いいんです。いくらでもあるから使ってください」

「明椿さん、優しいね」


 くそ、オレもハンカチを持っていれば。

 張り合ってどうする。と理性はあるが、女子を慰めたいのは男の習性だ。もし違うなら、それがオレの正義と言い換えてもいい。


「先生も見嶋くんも、みんな優しいから。私も文芸部にいたいって思っちゃうよ。私のせいなのに」

「だから、いていいんです。いて欲しいって言ってますよ」


 オレの声は届いていないのか。それとも急に日本語がヘタクソになったのか。

 泣き顔の先輩は、わけが分からないという風に首を振り続ける。


「どうして? 私がいたら、また意地悪されるんだよ。なんで邪魔だって言わないの」


 これは思い込みだろうか。いや、たぶんその通りだ。

 先輩が文芸部へ入ったのは、教師なら簡単に知れるはず。七瀬先生と弥富先輩がセットでいるならやりがいがある、とまで考えていないといいけど。


「邪魔じゃないですってば。七瀬先生も言ったじゃないですか、先輩のせいじゃないって——」


 ああ、これは違う。オレの言いたいのは、こうじゃない。

 あくまでも文芸部は建て前。目的は可愛い女子と、楽しい時間を過ごすこと。


「うん先生もですけど、オレもです。いいですか、先輩のせいなんてこと、なにも起こってない。先輩が怒る立場です。もしも先輩が悪いって言う奴がいたら、オレがどうにかします」


 カッコ良く言おうとしたのに、うまくまとまらなかった。ほら先輩の涙さえ止まって、ぽかんとオレを見てる。

 凄い可愛いけど。


「だ……」

「だ?」

「ダメだよ! 見嶋くんに危ないことはさせられない。そんなこと考えちゃダメ」


 腫れぼったい真っ赤なほっぺたが揺れる。さっきまで泣いていた顔で言われると、凄まじい罪悪感に襲われた。


「あ、はい。すみません。でもどうにかって言っても、荒っぽいことはできませんよ」


 どうやらかなりアグレッシブな想像をされたようだ。先輩の敵が女子ばかりなのを差し引いても、オレにそんな度胸も腕力もない。


「じゃあどういうこと……?」

「いや、その時になってみないと。でもまあどうにか頼んでみます、勘弁してくださいって」


 勢いで言っただけだ、具体案を迫られても困る。

 それなのに先輩は、泣いて震える口を横に広げた。にいっ、と笑う形に。


「そっか。その時はよろしく」

「え、ええ。任せてください」


 頼られた、でいいのかこれは。

 ということは、部員の意見は一致した。そうですよね? と質問の意味で、我らが顧問を盗み見る。

 四人で最も歳下に見える七瀬先生は、最高に貫禄のある重々しさで頷いた。

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