第59話:新たな条件

 遅刻を咎めてはいないはず。約束は午後一時。たぶん今は、その十分くらい前。


「ええと……」

「まあ座れ」


 突っ立ったオレに声を向けたのは、お誕生日席、いや議長席の七瀬先生。

 正座で腕組みで、カッと見開かれた目が行く先を示す。


 先生の左手、オレの目の前。明椿さんの背中がいつも通りに伸び、正座姿が凛々しい。

 ふわっとしたワンピースを着ているのに、裾を踏まないか気にする必要がなかった。


 気後れしつつ隣に座り、盗み見る。と、ちょっと顔をこちらに向け、控えめに微笑む。

 オレと変わらない背丈なのに、どうして頭のてっぺんが見えるんだろう。


「あの、オレのばあちゃんが」


 誰か話し始める気配もなく、間が持たなかった。せんべいを出せば少しは和むかも、とも思う。


「あ、お気遣いありがとう。せっかくだから開けてもいい?」

「もちろん」


 受け取った明椿さんが、厳重に貼られたテープを手際よく剥ぐ。蓋を受け皿のように敷き、銀色の缶は全員の手が届く真ん中に置かれた。

 のに、信じられない。


 数秒が経っても、誰の手も伸びなかった。ここにはあの、七瀬先生がいるのにだ。

 なにごとだよ。

 心の中で問うても、もちろん誰も答えてくれない。


 先輩か?

 当事者が誰か知らないまま、地雷を踏みたくなかった。

 すると推測しかないが、第一候補は正面に座っている。


 爽やかな緑色のシャツとうらはら、先輩はずっと顔を俯けた。テーブルのノートを見ているようでもあるけど、表紙が閉じられたまま。

 閉じると言えば、シャツのボタンが苦しそうだ。テーブルへ押しつけられた圧力に目を奪われ、そんな場合じゃないと自分を殴りつける。


「なにをしている」

「——いえ、なにかあったっぽいなと心配で」

「お前は心配ごとがあると、自分の頬を腫らすのか」


 ごもっとも。だがそう言うなら、状況を説明してほしい。「まあ、なんていうか」なんてごまかしていたら、ようやく話す気になったようだが。


 すうっ、と。そう声を出したかというくらい、先生は大きく息を吸った。

 平たい胸を張り、ふうぅぅぅと吐き出した息が、丁寧に明椿さんの畳んだテープをオレの前に押す。


「お前たちに、迷惑をかけてしまう」


 先生は腕組みを解き、両手を脚のつけ根に揃えた。

 頭を下げる格好が武士みたいで、堂々としているのはいい。しかし、なぜ? と疑問しか湧かない。


「文芸部存続の件だ。条件が追加された」

「えっ」

「向こうの言い分では、もとより織り込んでいたそうだが」


 完全に予想外だ。先輩の暗い様子から、例の同級生からなにかされたと思っていた。

 それをさておいても今さら条件追加なんてひどい話で、向こう・・・とやらに腹が立つ。


「えっ、せっかく人数が揃ったのに。文集も作れそうなのに、それでもですか」

「だから追加と言っている」


 それはそうだ、分かる。でも声にせずにいられなかった。

 せんべいの缶を睨む先生の口もとで、ギュッと食いしばる音がした。なぜ、どうして、と繰り返したい気持ちを、オレも空気を噛んで飲み込む。


「追加の条件って?」

「文化祭の演目の一つに数えられる催しをすること。その上で、二百部以上を捌くこと」


 元の条件は部員を三人以上。文化祭で一定の成果を発表すること。

 発表。に催しが含まれると言われればそうかもしれないが、それなら最初から言ってほしい。


「二百……」

「そうだ。当然に、お前たちが作ろうとする文集をな。ペラペラのパンフレットなどでは認められない」


 問題を持ち込んだのは七瀬先生なのに、どうしてそうハキハキと言えるんだ。

 お門違いと分かっていても、頭に浮かんでしまう。そのたびに、違う違うと頭を振った。


「二百部って作るだけでも大変なんじゃ?」


 今日、どんな原稿を作るか決めるつもりだった。さらにどうやって本の形にするかは、想像もしていなかった。

 小学生の時クラスで作った卒業文集は、順番に並べたページをみんなでぐるぐる回って重ねたけれども。


「ええ。印刷会社にお願いすると、三万円くらいはかかるみたい」


 ポニー先輩が作ったらしい資料を、明椿さんが見せてくれた。

 経費のかかりそうな項目が細かく調べられていて、アルバイトもしない高校生の身にはめまいがしそうだ。


「さ、三万円も? 部費ってそんなにあるんですか」

「ない。しかし必要な経費は立て替えてもらえる。文化祭当日の売り上げで返却しなければならんが」


 坐禅中のように、先生はじっと動かない。せんべいの缶を押しやっても。


「それはつまり、マイナスなら廃部って話ですか」

「それは関係ない。というか、赤字にしないのは当然だそうだ。あくまでも催しを行い、その一環として二百部を売らねばならん」


 そんな部数を売れるのか。ティッシュやビラを配るのだって、なかなか受け取ってもらえない姿を見るのに。

 どうにも厳しい。毎日ゲーム三昧の実情を思えば強く言えないが、それにしたって。


「だそうだ、って誰に言われたんですか。なんだか文芸部が嫌われてるようにも感じますけど」


 苛立つ気持ちが、語気を強くさせる。七瀬先生にもだが、言わせている黒幕に。

 だから荒く、刺々しくなったのは申しわけない。でもそれでポニー先輩が、顔を覆ってしまうとは思わなかった。


「あ、あれっ? どうしたんですか先輩。オレの言い方が悪かったですか。すみません」


 怖がらせてしまった。煮えそうだった腹が一気に冷え、膝立ちで手を伸ばした。でもどこにどう触れていいやら、宙をさまようばかり。


 すると先輩は横に首を振った。両手を顔に押しつけたまま「違うの」と呟き、聞き返したオレに指の間から目を向ける。


「私のせいなの」

「ええ? なんで先輩が。そんなことあるわけないじゃないですか」


 言いながら、まさかと思いつくところがあった。おそるおそる、七瀬先生に確認の視線を送る。


「断じて違う」

「で、ですよね」


 力強く、先生も首を振って否定した。しかし、ほっと息を吐いたのも束の間。「ただし」と余計な言葉が加わる。


「お前の想像する通り、難癖をつけているのは津守先生だ」

「ああ……」

「しかし重ねて、弥富のせいではない。嫌がらせに違いないが、それは私へのだ」


 と言われても津守先生が七瀬先生に嫌がらせをするなら、ポニー先輩が絡まる。

 先輩自身、きっと同じに考えているはず。何度も何度も、けいれんするように小さく首を振り続けて。


「お前たちには不愉快な話になるが、言わねば分からんだろう。多少の時間をもらう」


 先生は頭をぼりぼりとやって、足を崩した。とうとう内面が表に出たのか、おっさんくさくあぐらを組んで。


「私は昔から、自分とそれ以外の区別をつけるのが苦手だ。私と人の立場は異なり、できることできないことに差があるのを無視してしまう」

「はあ」


 津守先生とのしがらみの話と思えば、なにやら向きが違う。とぼけた声のオレに「まあ聞け」と苦笑が聞こえた。


「知っての通り、私は七瀬学園を運営する一族だ。七瀬の人間は基本的に現場へ出てこない。正確には教育の現場でなく、直接的な商売に注力している」


 土原学園の校長も教頭も名前が異なり、親戚でもないと以前に聞いた。たくさんの学校があるなら、仕方がないと思うが。


「小学生や中学生を無人島へ連れていき、自然体験をさせる、とか聞いたことがあるだろう。報道や土建業者を巻き込んでの青少年育成は、かなりの儲けになる」

「……はあ」


 きな臭い。ツンとした鼻だけでなく、相槌も搾り出したようにかすれる。


「私も幼いころ、参加者の側に加わった。今にして思えば、ていのいいサクラだ。しかし参加者の世話をする兄たちを見て、憧れた。こういう仕事なら一生楽しかろうと。私も成長すれば、運営側になれると」


 野山で駆け回る、男の子みたいな七瀬先生。今の冷めた雰囲気からは遠いが、男まさりなところは似合う気がした。それに遊ぶことには一所懸命なのも。

 当時の先生は、実際にそういう子どもだったに違いない。


「しかし、そうはならなかった。女性がリーダーというと、ウケがいい。お膝元の土原学園で校長となり、直接的に采配する理事長となれ。というのが中学の時、突如として敷かれたレールだ」


 声を区切るたび、先生は奥歯を噛みしめる。それがどこか痛むのを堪えているようで、見ているほうもつらい。


「兄たちと違う道行きに腹を立てた。それが天職と、勝手に期待したせいもある。兄よりも——いや誰より高い成績、誰より多くのスキルを身に着けた。が、覆ることはなかった」


 中学生が否応なく夢を壊された上に、遠い未来まで決めつけられる。

 やりたいことのないオレでさえ、その鎖に嫌悪しか感じない。


「それから多少の紆余曲折を重ね、情けなくも私はレールに従った。そこでお待ちかね、津守先生と出会うわけだ」


 正座した脚に、じっとりと湿気が伝わる。なにかと思えば、自分の手汗だった。いやに蒸し暑く、息苦しく感じる部屋だ。

 さっきの家政婦さんが、お茶でも持ってきてくれないか。図々しく廊下の気配を窺っても、誰かが近づく気配はない。

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