第55話:目の前の小さな幸福
日曜日の朝を迎えても、雨は続いていた。
じっとしていなきゃ聞こえないくらい静かに、でも窓を開けるとやはり降っている。
ちょっと世界が暗いだけで、遠くの山くらいまではしっかり見えた。その途中を走る車や、そよぐ草葉の音は聞こえないけれど。
朝ごはんを食べて、ばあちゃんの飲む薬を数えて、ふたり分の食器を洗った。
すると曇った表情の中に、晴れ間が見える。はっきりゆっくり「ありがとう」と、発音を教えるみたいにばあちゃんは言う。
「いいから」
触れられてもない手を払いのけるように、自分の部屋へ逃げる。宿題が残っているから、と自分に言いわけをして。
まあ本当にあるんだけど。
学校のカバンから、プリントを二枚。A3の再生紙いっぱいの細かい文字。
後ろ向きかけたなけなしのやる気に、日本史の問題だからと言い聞かせる。オレの授業担当は七瀬先生じゃないけど、それでも。
あちこち気を散らかしながら、どうにか十一時前には終わった。日曜日は、まだまだ半分残っている。
変わらず雨も降っていて、外へ出る気にはならない。部室の本でも持って帰っていれば良かった。
つくづくなにもないよな、オレ。
畳に寝転び、セメント色の窓を見上げ、格好をつけてカッコ悪いことを考えた。
だから、出かけることにした。似合っているかとか、考えなくていい服に着替えて。
「ばあちゃん、ちょっと出てくるね」
「あら、お昼は?」
「なにか買って食べるよ」
「おにぎりでも作ろうか?」
ばあちゃんはオレのやることを否定しない。それどころか、少しでも助けてくれようとする。おにぎりが二つで、三百円くらいはするんだから。
肩かけのカバンに放り込み、バス停へ向かった。
傘をさしていても、すぐに身体じゅうが湿ったように感じる。制服の衣替えは六月らしいけど、今すぐ半袖にしたい。
通勤や通学の時間を外れていて、しかも日曜日。一時間に一本しかないバスが停まっていた。
今にも発車しそうなのを、走ることで乗りますと示す。おかげで汗をかき、薄っすらとワイシャツが透けてしまった。
最後尾の席にうずくまり、頭上からのぬるい風を抱え込む。
土原学園まで、およそ二十分。乗る人と降りる人が、十人もいただろうか。オレが降りると、バスは乗客なしで走り去った。
半分のところまで開けられた校門を抜け、靴を履き替えて職員室へ。社会科資料室の鍵は、キーボックスになかった。
鍵の管理簿を確認して、我が部室へ向かう。上履きの底が廊下と触れ合い、ゴム独特の粘っこい音を立てる。
誰の姿も映らない廊下。湿った空気。
ニチャ。ニチャ。という自分の足音が、良くないもののように聞こえた。
北校舎へ渡り、階段を上る。どこかから吹奏楽部の練習音が聞こえるほかは、いよいよ人の気配がなかった。
影もできない薄暗い空間をゆっくり。最初の踊り場を回って、一段飛ばしで。
チャッ、チャッ、と足音も軽くなった。二階からさらに速度を増して駆け上がる。
もう置いていった足音は聞こえない。三階に辿り着けば、右に折れてすぐが目的地。ぴっちり閉まった扉を引くと、やはり鍵はかかっていない。
「なんだ、忘れ物か?」
果たしてテーブルに、七瀬先生の姿はあった。ソファーでなく、椅子に座って。
なにやら書類を書いていたらしく、ペンを置いて顔をオレに向けた。
「いえ、暇だったんで。先生は仕事ですか」
「仕事と言えば仕事だが、大してお前と変わらんな」
「暇だったんですね」
テーブルにカバンを置きつつ、先生の仕事場所を覗く。帆布のペンケース、指導要領と題された本、真っ黒に書き込まれた大学ノート。
先生の手もとには、A3のコピー用紙。試験問題でも作っていたのか、さっさと半分に折られ、クリアファイルにしまわれた。
「まあな」
仕事道具が次々に片付けられていく。邪魔をしたなら申しわけない。
と思っていたら、代わりに領地を広げていったのはコンビニで買ったらしい食べ物。
おにぎり、サンドイッチ、レジ横のからあげ。からの、焼き肉弁当。
「お前、昼は?」
「おにぎりを」
「そうか、私も今からだ」
そう言い終わる前に、もうおにぎりが口に入っていた。オレは慌てて、もう一つの椅子を運ぶ。
テーブルの角を挟んで隣同士。ばあちゃんの作ってくれた真っ黒のおにぎりは、コンビニおにぎりの二倍もあった。
「うっ——」
オレが食べ始めてすぐ、先生の呻き声がした。見るとペットボトルのコーヒーを口に当て、渋柿でも食べたように顔じゅうがくしゃくしゃだ。
「どうかしました?」
「ブラックだった……」
「飲めないんですか」
毒でも盛られたみたいに震えながら、ペットボトルを置く先生の手。
なんでもこなす完璧人間ってイメージがあったけれども、意外と見た目通りのところもある。
いや意外でもないか。
「お前は飲めるのか」
「ええ、たまに飲みます」
「そうか。じゃあ飲め」
えっ。と声を発する間もなく、ペットボトルが放られた。
先生は駆け足ぎみで宝の隠し場所へ向かい、お茶を取り出す。椅子に戻る前にその場でごくごくやるところを見ると、本当にダメらしい。
まあ誰でも、好き嫌いくらいあるよな。
ちょうど飲み物の欲しかったところだ、ありがたくブラックコーヒーをいただいた。
少し口に残っていた米粒とは、合わなかったけれど。
「暇と言ったが、本当か? 後悔先に立たずという言葉は知っているだろうな」
食べ物があらかた姿を消したころ、先生はオレのカバンを見ながら聞いた。
「なんで嘘つかなきゃなんですか」
カバンの口を開け、おにぎりを包んでいたラップを放り込む。すると先生は、テレビのリモコンを手に取った。
「なら、付き合え」
「いいですよ、オレで良ければ」
「ここにはお前しかいない」
隠していたジョイステ3を接続し、電源を入れる。二日前と同じ格闘ゲームが立ち上がった。
先生は白い空手着を、オレは青い中華服を。日の沈む時刻まで、やはり一本も取れなかった。
カバンの中に、探訪の旅でメモしたノートがあった。それを文章にまとめるための、別のノートも。
しかし、まだまだ時間はある。明日、ポニー先輩と打ち合わせてからでも遅くないはずだ。
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