第52話:半端はしない
「ぐぅ……んんうぅぅぅぅぅ」
聞き覚えのある、ウシガエルの声。そっとまぶたを持ち上げると、振りかぶった田村の腕がゆっくり下りていった。
オレが見ているのと同じ、珍妙な生き物の姿に奴も驚いたようだ。
「ぐっ、うぐっ、くぅっ」
土色の四角い殻は、背負う本体の三倍ほども大きい。有機EL四十インチ、
ただその殻が入り口よりも幅広で、がつがつといくら突撃しても入ってこれないでいる。
パンパンに膨らんだほっぺたや眼の周りが、青褪めていた。「ふぐぅ」と呻く声は、割りとシャレになっていないらしい。
「七瀬先生!」
明椿さんが駆け寄り、ハッとオレも気づいた。
横歩きをすれば通れるのに、それすら思いつかなくなっている。手を伸ばそうとしたが、先生はそこをどけというように手を振った。
ダンボール箱を背負うベルトに、慌てて戻したけれど。
「分かっ……ている。横だ」
ウシガエルの後退と方向転換は、こんなブルドーザーみたいな力強さなのか。どちらにせよ難しいはずの横歩きを、人間であるところの先生はこなした。
「もう大丈夫みたいね」
通行できるようになった入り口から、数人の三年生が顔を出す。
また心配して着いてきたのに、手伝わせてもらえなかったんだろう。「じゃあね」と去っていった。
咄嗟に「どうも」と頭を下げ、どんな立場だよと自分につっこむ。
「あっ先生、ひとりで降ろすのは無理です」
今度はなんだ。振り返ると先生は、棚に背中を押し付けていた。まっすぐな柱の面に沿わせ、箱を着地させる心積もりと見えた。
察した明椿さんが手を出すのは、もう断る余力がないらしい。ズルズルッと派手な音がしたものの、どうやら無事だ。
「ふう…………」
そのまま手足を投げ出した先生から、ベルトが外される。到着までが
「ふう、じゃないですよ。言ってくれれば手伝うのに」
「――見ての通り、ひとりで十分だった」
整わない息を溜め、強がりを一気に吐き出す。そしてまた、荒い呼吸を始める。
なんだろうな、と苦笑するしかない。でも助かった。嫌な空気が吹き飛んだし、先生を前にして、田村も妙なことを言わないはず。
奴を盗み見れば、呆然と立ち尽くしていた。
「良顕、私になにか用か」
明椿さんが持参の水筒を差し出し、ひと口を飲んでから。ちょっと機嫌の悪そうな、いつもの視線が田村に向く。
「あ、いや、別に」
先生の低音であちこち縛られたみたいに、田村はピシッと気をつけの姿勢をとる。「うまかった」と水筒を返し、先生はお尻をはたきつつ立ち上がった。
「お、お邪魔しました」
お前は横歩きしなくていいだろ。
先生に背中を見せると、襲われでもするんだろうか。ちょこちょこと小刻みに、田村は出口へ向かう。
「おい」
「はいっ」
先生の呼びかけに、田村は硬直した。鋭い視線は奴を捉えてないというのに。
その代わり、残骸となった本棚へ向いていたが。
「話があると卓哉に言っておけ」
「え……」
「聞こえなかったか」
「いえっ、はいっ!」
先生の嫌う相手の名前。それは田村に、どんな意味で聞こえるのか。奴は弾丸の勢いで頭を下げ、部屋を出ていった。
開いたままの扉から、明椿さんは顔を出す。左右、二回ずつ。辺りを見渡し、静かに閉じる。
「なにかあったか」
首をぐるぐる回しつつ、先生の身体がソファーに沈む。パンツスーツだからいいけれど、スカートだったら見られない格好で。
崩れた本棚がある以上、なにもなかったは通らない。しかし皆まで言うのか?
七瀬先生に対しては今さらだ。田村卓哉への話とやらで、クラスメイトの田村がおとなしくするならありがたい。
ただし今は、明椿さんがいる。案じてくれる女子を前に、なんと言うのが正解か。
「あいつが。田村が、なにしてんだって。それで本棚を見つけて、ヘタクソだなって。ふざけてたら壊れて。それだけです」
ほんの少し考え、出てきた言葉はこうだった。奴をかばうつもりはない。たぶん、間違いなく、告げ口を見られたくなかった。
「そうか」
そんなはずあるか、なんてこの教師は言わない。
納得の返事は聞き流し、明椿さんに視線を。先生の持ってきたダンボール箱に手を添え、オレを見ていた。
ああ、いじめられたとさえ言えない意気地なしって見かたもあるか。どう答えても格好悪くなるとは思わなかった。
「明椿は、もう食ったのか?」
「い、いえ。まだ途中でした」
「なら食え。私も食う」
あのパンツスーツは、四次元ポケット付きかもしれない。どこからともなく、おにぎりと菓子パンが二つずつ出てきた。
テーブルにオレの弁当箱もあるんだが、誘われなかったのはともかく。明椿さんはダンボール箱から離れない。
「食べないの?」
「あの、これ。倒れそうで」
オレの問いで、白い指が箱から離れた。すると答えの通り、ゆらあっと傾き始める。
「そうなんだ、気づかなくてごめん」
普通は自立すると思うけど、随分と箱が歪んでいる。それに運んできた背負子みたいな道具が小さくて、バランスがとれないらしい。
背負子から降ろし、棚へ預けるようにするとどうにか立った。
「おい」
「はい?」
呼びかけに名前がない。まあオレだろうと見当をつけて返事をしたが。
「それ、接続できるか?」
「できると思います」
「なら、やっといてくれ。いつでもいい」
明椿さんも、私かな? みたいな顔で待っていた。が、やはりオレだ。
「今日じゅうに」
「ああ」
四十インチのテレビなんて、さすがに部費では買えないと思う。これも余ってたとは言わないと思うが、まあ顧問のやることなので文句は言わない。
明椿さんと並んで、先生の対面に座った。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
三人、顔を突き合わせて無言で食べる。食事中にもぐもぐなんて音しないよなとか、どうでもいいことを思いつくほど。
最初に食べ終わったのは七瀬先生。でももちろん足らなくて、お菓子とお茶を引っ張り出した。
次にオレ、最後に明椿さん。
「ごちそうさまでした」
修行僧のような合掌を、今度は合わせてできた。
「あの、先生」
「ん?」
ポーチに弁当箱を納めつつなのは、昼休憩の残りが心もとなくなってきたからか。明椿さんは自分の手もとを見ながら言った。
「土原学園は、兼部が認められるんでしょうか」
「問題ない」
きゅっと紐を引き、ポーチの口を閉じる。水筒と揃えて置き、明椿さんは姿勢を正して先生を見つめた。
「それなら私も、文芸部に入れてください。美術部と掛け持ちで」
「構わんが、受け付けるのは私じゃない。それと一応、向こうの顧問にも言っておけ」
なんだ? と戸惑う間に、明椿さんは「分かりました」と頭を下げていた。先生がオレを睨むのは、たぶん「用紙を出せ」だ。
「えっ、と。急にどうしたの」
棚から入部届けを取り、手渡す。歓迎だが、驚きもした。
サプライズを成功させた当人は、至って真面目に記入を済ませ、すぐに用紙をオレに戻す。所要時間は十秒ちょっと。
「昨日ね、みんな私を応援してくれたでしょ。あれから色々考えて、半端なことをしたくないと思ったの」
「半端?」
昨日と言われて、なんだっけと。
いや大丈夫、一秒で思い出した。茶道を習いたいって話だ。
知ったかぶったオレを見つめ、こっくり。深々と明椿さんは頷く。
「今すぐに私がしたいのは、文芸部の文集を作ること。そのために、この部屋にいても、なにしてるんだって言われたくない」
「あー……」
七瀬先生にも通じる鋭い視線と、柔らかく笑う口もと。そこはかとない迫力に、なにも言えなかった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
じゃあ、ってなんだ。
ふわっとしたオレの言葉に、明椿さんははっきりくっきり答えてくれた。
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