第51話:降りかかる火の粉

「え――」


 なんで? の言葉が、頭の中を埋め尽くす。なにを怒ってるんだ、より。お前が話しかけるなと言っただろ、よりも。

 ここにオレがいることを、なぜ知っているのかと。


「お前、どこに行ってたんだよ」


 気に入らない風で「はあっ」と聞こえた。歩き方ものしのしと、不満げに踏み入ってくる。

 どこに、がまた分からない。なにを約束することもない相手に、咎められる謂れが。


「どこって? なんの話だよ」

「はあ?」


 ソファーの真後ろから落とされるイライラした声に、オレの胸もざわつく。

 はあ? は、こっちのセリフだ。と思いながら、続けるオレの声は震えた。


「だ、だから。オレがどこか行ってたって、いつの話だよ。答えようにも分からないだろ」


 そう言う間だけ、田村に顔を向ける。終わると手にある弁当へ視線を逃がす。

 今は食事中で、乱入してきた奴に合わせてやる必要はない。なんて言いわけを、胸の中で繰り返した。


 俯けた視界にも、ベージュのポーチが入り込む。

 そうだここには、オレだけじゃない。見ると明椿さんは、ポニー先輩ばりの困り眉で田村を見上げていた。


「あれ、明椿さん。なにしてんの」


 オレを睨む田村の目にも映ったらしい。鋭さの消えた視線が、ほぼ真下へ向く。


「見嶋くんと話があって」

「こいつと?」


 人さし指と言うが、面と向かって指される経験は少ない。ぶしつけな指先から目を逸らしつつ、明椿さんの様子を窺う。

 白くて長い指が、弁当箱の蓋に伸びた。まだ中身があるのに、さっと閉じる。


 その上に箸を置き、田村から遠いほうへ押しやられる。ベージュのポーチがその手前へ、堤防のごとく立てられた。

 田村は気にした様子もなく、明椿さんの動作が終わるのを待つ。


「ぶっ、文芸部のことだよ。明椿さん、いつも本を読んでるだろ。だからいい本があれば教えてもらおうと」


 訝しむ目が、こちらに向く。お互いよく知る仲ではないけど、読書の習慣がないくらいは知っているだろう。


「文芸部? お前が?」

「ああ」


 悪いか? とは飲み込む。

 しかし意外に「ふーん」とだけで、田村は室内を見回し始めた。


「明椿さんて、そんなに読書してたっけ」

「大したことは。休み時間にちょっと」

「そか」


 聞いて、答えてもらったのに。明椿さんを見ない。オレとしては、そのほうがいいけれども。

 どこへ行く気か、壁に向いた田村の背を、銀縁メガネが斜めに見る。


「文芸部って、これか」


 不格好な本棚を前に、田村は「フッ」と。


「本、少なすぎだろ。真面目にやってんのか。それにこの本棚、小学生にもらったのか?」


 振り上げた平手が、天板を叩く。木板の軋む、嫌な音がした。思わず目を瞑るが、崩壊の音は続かなかった。

 目を開くと、明椿さんの目も閉じていた。


「えっ、こんなんで壊れないよな」


 噴き出すのを堪える表情で、田村の手が本棚を揺する。わざとらしく逃げ腰という姿勢で。

 棚をバカにするのはいい。奴の言う通り、これくらいで壊れたら仕方がない。

 でもそこには、先輩に選んでもらった本がある。そろそろやめろと、腰を上げかけた。


「出来が悪いのは知ってるって。そっとして――」


 遅かった。

 ゆっくりと、本棚が倒れていく。メキメキという悲鳴もかすか、なすがままに。

 側面が床へ着き、並べた本が崩れる。その音がいちばん賑やかというくらい、ひどく静かだった。


「あっ」


 最初に声をあげたのは、当の田村。倒れた棚と元の位置とを、交互に見る。

 たぶんオレにも怒る気持ちはあった。だがクラスメイトを前に、竦んだ気持ちを上回りはしない。


 からかうだけのつもりだった。そうか、それは分かった。頼むから、もう帰ってくれ。

 平坦になった心の中で、訴える。身体は勝手に残骸へ向かった。


 重なった板を退け、脇の床に置く。明椿さんもソファーを立ち、手伝ってくれた。

 一冊、手にとってみる。


「本は大丈夫そうだけど」


 向かって同じことをする女子は、本だけでなく棚にも目を向けた。だがオレは「うん、良かった」と頷く。

 本を集めるのは任せ、板を片付けた。そもそも大した枚数でなく、一分かそこら。


「ええと、結局なんだったっけ」


 声も平たくなった。気が済んだら出ていってくれ、という気持ちを篭めた。


「えっ? あ、いや」


 田村の顔に、しまったと書いてある。

 うん。クラスじゅうの雰囲気に従っているだけで、心底悪い奴じゃない。

 だから関わらないでくれたら、それでいい。と期待しても、その通りにはならなかったが。


「そうだ、二日だよ。二日の夜、お前の家に電話した」

「電話? なんで」

「その次の日に、男がもう一人ほしかった。誘ってやろうと思ったんだよ」


 男がもう一人、ってことは女子との人数合わせか。誰とか知らないが、オレを頼むとはよほど困ったらしい。

 その時電話を受けていたら、どうしたかな。今はお世辞にも、なに言ってんだ? としか思わない。


「電話って、ばあちゃんが出なかったか」

「出た」

「じゃあ部活で出てるって聞いただろ」

「聞いたけど、そんなの信用するかよ」


 ソファーの背もたれに、奴の尻が乗る。腹の底が少し沸いた。

 嘘つきとでも言う気か。たしかに電話があったと聞いてはないが、ずっと元気のないばあちゃんを責められない。


「そうか。誘ってもらって悪かったけど、出かけてたものは出かけてた」

「悪いじゃすまないって。お前のせいで予定が流れた」

「なんでオレのせいだよ」


 いい加減にしろ。

 腹に溜まる熱湯が、そろそろ噴き上がりそうだ。せっかく来てくれた明椿さんまで、オレの横で所在なさそうにしている。


「だから言ってるだろ。なんで誘ってやったのにいないんだって」

「無茶苦茶言うな、オレにはオレの予定がある。お前らの都合なんか知らん」


 奴の中では筋が通っているのか、「へえ?」と怒りを含んだ声。脅す目つき。

 それとは別に、オレの袖を誰かがつかんだ。誰って、ひとりしかいないんだが。


 大丈夫、殴り合いとかはしない。やったところで、田村に勝つ自信もない。

 その相手を前に言えないけれども、どうにか穏便にお帰りいただかないと。


 って、どうやって?

 なにも言ってないのに「なんだよ」と。訳するところは「かかってこい」だ。

 明椿さんがいなければ逃げるって手もあったが、逃げ道は二歩離れた田村のさらに向こう。


「もういっぺん言ってみろよ、悪いのは俺か?」


 どうにもならない。込み上がった息を吐いてさえ「バカにしてるのか」と言われては。


「誰が悪いとか言ってない。オレの予定を勝手に決めるなってだけだ」

「へえ、そうか」


 頷いて、つかつかっと距離が詰まる。顔にかぶさる風を感じ、ぎゅっと目を瞑った。

 と同時に、扉の開く音がした。さあっと、よく聞く素直なレールの音が。

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