第50話:訪れの理由
一段目に足をかけ、明椿さんは止まった。合わせる手間もなく、視線がぶつかる。まばたき二回で、よそへ逃げていったけれど。
「ええと……」
声を出すまで、少しの時間が必要だった。なにか言わなきゃ会話ができないことも忘れていた。
だが明椿さんの目はあさっての方向から、おとといへ動く。それが今日に戻るまで、オレには継ぐ言葉がない。
見なかったこと、で行ってしまうか。
たぶん追いかけてきてくれた事実も、そうすればナシにできる。そのほうが明椿さんにとって楽だろう。
オレみたいなぼっちを気遣う必要はない。きっぱり顔を背けて、社会科資料室へ逃げ込む。それが最善と思うのに、目を離せなかった。
「あの。お弁当、一緒に食べようと思って」
もたもたする間に、あちらの準備が整ったようだ。持ち上げたベージュのポーチが無地で潔い。
「あ、うん。ソファーあるよ」
学園一の萌え声を聞いては、来るなと言えない。合わせてオレも風呂敷包みを見せ、階段を上った。
きゅっと結ばれた明椿さんの口もとが緩むのを見て、良かったと。安堵するオレは節操がない。
「お邪魔します」
鍵を開け、先に部屋へ入った。振り返らなくても、三歩後ろで頭を下げたのが分かる。
顧問がいる時と同じく奥の椅子に座り、ソファーを指して「どうぞ」と。明椿さんは座面を撫でながら、ゆっくりと腰を下ろす。
「いただきます」
「い、いただきます」
明椿さんは禅の修行中みたいに、しっかりと両手を合わせた。旅中の食事でもやっていたけれど、あれは先生がいるからと思っていた。
オレがひとりで食べる時、いただきますも言ってたっけ?
たぶん言っていない。この部屋の住人も。
「いつもここで?」
「だね」
「色々揃って、居心地が良さそう」
「だよ」
「先生も来ることがあるの?」
「あるよ」
ひと口飲み込むたび、質問も一つ。ひと言返すと、律儀に微笑んでくれる。
しかし本当に話したいのは別にあるのが、見え見えだった。そう思うと、ひと言以上が浮かんでこない。
「ごめんなさい。どうするのがいいか、迷ってしまって」
ひじきのカップを空にしたところで、急に謝られた。弁当は半分くらい残っていて、本題はまだ先と油断していた。
「ん、あ、うん。なに?」
「朝、ね。見嶋くんが登校してきて、顔を見たの。でも目が合わなくて、とても緊張してるみたいで」
そうです、ぼっちだからそうなるんです。恥ずかしげもなく登校してすみません。
と土下座したくなる。明椿さんには関係ないし、困らせるだけと分かっていても。
「……まあ、知っての通りで」
「こんなことやめて、とみんなに言っても、見嶋くんを困らせるだけだと思う。せめて普通に挨拶くらい、というのも迷惑かも。なんて考えていたら、声をかけられなくて」
楕円形の弁当箱は、オレの半分よりも小さい。ピンクのプラ箸を見て、和食器じゃないんだとかどうでもいいことに感心する。
明椿さんの手は、完全に止まった。
「そんな気を遣わないでいいよ。こうなったのもオレのせいだし」
「見嶋くんのせいなの?」
俵型のおむすびを、わざと口へ放り込んでから喋った。大したことじゃない感で、ごまかすために。
けれども明椿さんは目を細め、窺う表情でオレを見つめる。
「むつみちゃんの件。たぶん私、先に帰っていて。でも後から、見嶋くんが嫌がらせしたって聞いた。それはないと思っていたけど、そうなの?」
むつみちゃん。親しげな呼び方に、目の前がくらっと遠退いた。
「いや正直に言って悪いけど、オレは知らない。髪の色を褒めたのだって、姑息に媚びを売っただけでさ」
校則違反になるって意識さえなかった。知り合ったばかりの相手に嫌がらせする理由がない。
言うべきことはほかにもあったはずだが、オレの口は自分を姑息と呼ぶことを選んだ。
「そうよね。見嶋くんなら、注意したほうがいいよなんて忠告してくれると思うもの。あなたはそういう人よね」
「いや、そこまでは分かんないけど」
そんなこと言うか? と、オレのほうが疑わしく思う。
それでも半分くらい、その可能性もあるかもみたいな返事をする。どうにも姑息な自分にため息が出た。
「大丈夫、分かった。私、決めた」
「え、なにを」
「クラスのみんながどう言っても、私は普通に見嶋くんと接するね」
箸を持ったままの右手がグーに握られた。やるぞやるぞと気合いを示すみたいに、小さく振りもする。
「そ、それはやめたほうがいいような」
「迷惑?」
「いや気持ちは嬉しいけど。むしろ明椿さんに迷惑が」
二年に上がるまで、このまま隠密していたっていい。文芸部があれば、どうにかなる気がした。
それをわざわざ、明椿さんに泥をかぶせる意味がない。
「ううん。見てみぬふりのほうが苦しいの」
「ええと、いや、その」
こうまで言われてなお、見てみぬふりしてくれと頼むのも妙だ。だけど明椿さんへも被害が及ぶのは間違いないはず。
どう言ったものやら、言葉に詰まる。
説得力のある低音が、この場に欲しかった。こんな時いつも、ヒントをくれるあの人が。
食べかけの弁当では呼び出しの贄にならないし、都合よく来てくれないか天に願う。
と。
入り口が開いた。普通に引けば静かに動く聞き分けのいい扉が、金属のレールに掠れた叫びを上げて。
今までになく、最悪のご機嫌か。おそるおそる目を向けると、そこに立つのは予想より背の高い誰か。
「おい見嶋」
声の表情も顔と同じに言っていいなら、間違いなくの仏頂面。逆光の中からオレを呼んだのは、田村だった。
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