第48話:心変わり

「さっきの明椿さん、凄く嬉しそうな顔してたから。それでもなにか、我慢してるような」


 嬉しそう、だったか?

 熱心とは感じた。たとえばオレに、あれほど没頭できるものは思いつかない。


「だから今日くらい、遠慮せずに好きなことしたらいいのにって。そんなに深く考えてることって思わなかった」


 もう一度、先輩は頭を下げる。斜めに座っているから、明椿さんへ向いてはいないが。

 されたほうも同じに。

 立ち位置も現実も端に座るオレに、なにか言えるだろうか。反対端の引率者は、話を聞いているかさえ怪しい。


「好きなことというか、楽しいですよ。この旅行に誘ってもらえて。興味のなかったことも、先輩や見嶋くんが行きたいと思った気持ちを聞くと、納得するし感心します」

「そうだね。こんな機会でもないと、私も芦野川へ行かなかった。行ってみたいって思うだけだとなかなかね」


 たしかに。いつでもできると思うことは、結局いつまでもやらない。裏庭の草むしりとか、ってこれは違うか。

 たぶん分かっていないのに、首の縦運動をする。と、先輩がオレのほうを向いた。


「だから、ありがとうだよ」

「えっ、ええ?」

「誘ってくれたから。普通、誘わないよ? 私なんて」


 急にどうした。なにがどうなった。

 惰性で頷き、慌てて運動を横方向へ変える。オレからすれば先輩以外に誘える相手がいなかった。

 それだけなのに、明椿さんまで。


「うん、私もありがとうございます」

「いやいや、オレ誘ってないし。いや誘いたくなかったんじゃなくて、誘ったのは先輩だし」


 しどろもどろ。これじゃあ嫌がっているみたいで、言葉を足せば足すほどダメになる。

 なのに明椿さんは微笑み「それでも」と。


「ええと、うん。こちらこそ。来てもらえないとオレも困ったし」


 否定しても、いやいやそんなの繰り返しになりそうだ。受け入れたような、そうでもないような感じで濁した。


「きみは優しいねえ」

「ですね」

「ええ……」


 なぜだ。オレを褒めないでくれ。嬉しいけれど、態度に困る。こういう時は話題を変えるしかない。


「あっ、明椿さんの話だけどさ。調べてみれば? 家の手伝いができなくなるような、ガチじゃないのもたぶんあるよ」

「そうだねえ。それこそ体験会みたいなのに行ってみるとか」


 思いつきに乗っかってもらえた。先輩が言うなら、そういう催しもあるに違いない。じゃないと今どき、習いたい人も限られると思うし。

 だが明椿さんは、はっきりと返事をしない。ちょっと頷いたと思うけど、答えが地面にあるかのように視線をウロウロさせる。


「あの。先生はどう思いますか?」


 先輩からは背中の側へ声が向く。

 十個を超えたあたりから、焼きまんじゅうを数えなかった。でもまあ満足したらしく、増量サイズの緑茶を傾けていた。


「まんじゅうの生地に餅を仕込むと、これほどうまいとは知らなかった」

「ええと?」


 七瀬信者の先輩が言葉に詰まる。無理に上げた口角も、ゆっくりと下がった。


「どれだけうまいと見聞きしても、食ってみなけりゃ分からんよ。中でも地元の庭園で食えば最高だろうが、通販で取り寄せるのを下策とは思わん」


 この人はなにを言い出した。「んん?」と勝手に疑問がこぼれる。

 それなのに明椿さんは「そうですね」と言った。答え、たのかもオレには分からない。メガネの奥の見慣れた鋭い視線で、じっと先生を見つめた。


「もし――試食だけで。いえひと口だけかじって、もう食べられないと言ったら。それはお行儀が悪いでしょうか」


 ああなるほど、さすが頭の回転が違う。たとえ話にたとえ話で返すなんて、オレにはとても思いつかない。


「しっかり味わった上ならば仕方がない。土産でシュールストレミングをもらったが、その場で食うのを断念した。しかし機会がなければ、今も無責任に食ってみたいと言ったはずだ」


 無敵の食欲魔人にも苦手があるとは驚いた。と思った瞬間、明椿さんを見上げる先生の視線が、オレに向く。

 しかも睨みつけて、どんな野生動物か。


「試さないほうが無責任、ですか」

「場合による。しかし何百円の菓子ひとつふたつに、恐れ入るな。明椿はまだ子どもガキだ、私が食えと言う前にねだっていい」


 だが応答はきっちり。そんな先生に「分かりました」と、明椿さんは頭を下げる。ベンチに座ったまま、膝を抱えるようにして。


「造園作業は元和六年に始まったそうだ。しかし幾度かの改修によって、上田宗箇の手がけたものは残っていない。なに一つ」


 伏せたままの明椿さんを、七瀬先生は見つめる。


「だからと言って、上田宗箇の存在や行いが無意味にならない。紛れもなくここは、上田宗箇の手がけた庭だ」


 言葉が終わっても何十秒か、明椿さんは動かない。やがてゆっくり頭が持ち上がると、先生はなにごともなかったようにあさってを向く。


 そのまま四人とも、それぞれ違う方向を眺めた。

 オレは園のすぐ外へ見える、高層ビルを。なにをしているか分からないけど、間違いなく仕事中だ。

 ゴールデンウィークに大変だなと十人並みの感想。ついでに高校生で良かったとか。


 すると七瀬先生は、今なにをしている?

 部活の引率は仕事に違いないけど、どうもそういう空気がない。

 そうか、これをどう捉えるかも場合によるのか。誰か偉い人でもやってくれば、先生だって姿勢を正す。

 そうでない時間は楽にしていい、という意見にオレも賛成だ。


 それからぐるっと、庭園を一周した。あっちを見てこっちを見て、ときに戻って。入り口の黒い門が見えたのは、もうすぐ正午の頃合い。


「ああ終わっちゃった……」


 左隣りから聞こえた声が、とても寂しそうだった。ちらと目だけを動かして見ると、困り眉の間に深いシワが寄り、唇も苦笑の形に歪んでいる。


「時間的に多少の余裕はあるぞ」


 最後尾から先生。庭園を出た後、行きたいところがあるなら行けると。

 そうだ先輩が言ったのは、延景園を見終えたというだけじゃない。この旅の予定が、全て終わってしまった。


 先頭の明椿さんが足を止め、振り返る。木々の合間に見える武家屋敷に目を向けつつ「終わりですね」と呟いた。

 目が合い、笑って首を横に振った。始まったはずのお茶会は、見に行かなくていいらしい。


「ねえ見嶋くん」

「はい?」


 呼ばれて見下ろすと、先輩も武家屋敷の方向を見ていた。答えてもそのまま。


「文芸部の部長だよね」

「たぶんそうです」


 いったい急にどうした。ここからなんの話があるやら。

 首をひねりつつ、頷く。


「私、文芸部に入れるかな」

「えっ、先輩がですか? いやそれはもちろん歓迎ですけど。ええと、大丈夫ですか」


 ポニー先輩には事情がある。おおまかに聞いたけれど、根が深い。バカなオレでも、どうぞどうぞと無邪気には言えなかった。


「部員の名簿なんて、きみと先生しか見ないでしょ。だから大丈夫」

「それはそうでしょうけど――」


 いいのか?

 良くない気がするのに、なぜ良くないかも明確に言えない。

 迷って、振り返る。が、そこに顧問の姿はなかった。入り口脇の売店へ、たったっと駆けていく。


「うーん……分かりました。歓迎しますけど、なにかあったら言ってくださいね。オレじゃ役に立たないかもですが」


 望んでいたことだ。それに先輩の言う通り、他人の所属する部活にいちいち文句を言う人もいないはず。

 なにかあったらその時に考えればいい。先輩が来てくれる代償として、それくらいは安いもの。


「良かった。じゃあ部長さん、これからよろしくね」

「こちらこそです」


 溜めた息を「ふうっ」と吐いた先輩がオレを見上げる。それはとても嬉しい景色で、胸の奥が熱くて、だからすぐに目を逸らした。

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