第45話:流れのまま

 会う方法がない。だから考えないようにしていた名前。でも一日のどこかで、必ず頭に浮かんでしまう名前。


「タクに――」


 もう諦めた、はずだった。いつか謝りたいと願っても、相手の本名も知らないでは不可能だと。

 子どものころの話で、オレのほうこそ忘れられただろう。手の届かないみかんを指し、あれは酸っぱいと言い聞かせた。


「いや、あの。田村の従兄ですよね。あまり好きな相手じゃないと聞きましたけど」

「いや、好かんな。しかし使い物になる人間だ、少なくとも私よりは」

「そんなことないと思いますけど、でも大学の同期って聞いた気が」


 田村卓哉という人が、今どんな人格、性格を持っているか。知らないオレが、無責任なことを言えたものだ。

 本当にタク兄なら、優しくて面倒みのいい人だろう。しかしそれなら七瀬先生も、この旅に付き合ってくれている。

 優しくないし、どこか投げやりな感じもするけれど。


「うん。大学に通っても、教員免許を取り損ねることはある。と考えていた時だ、アレ・・と出会ったのはな」


 どうやったら先生になれるのか、詳しく知らない。しかし資格という以上、それは失格もあるはず。

 うっかり失敗しようとする七瀬先生の意思を変えさせたなら、先生になった理由とたしかに言える。


「ああ……」

「どうした?」


 そういうことですか、という普通の相槌が喉まで出ていた。でもなぜか、声に出したくなくなった。

 首をひねる先生から目を逸らすため、ぐびぐびっとジュースを飲む。炭酸が薄まり、冷えているのに甘ったるい。


「いえ、なんで気が変わったのかと思って。その田村さんからなにか?」

「まあな」


 ひと言答え、先生は首を俯けた。

 なにか悪いことを言ったか、と覗き込む。するとすぐ「ふっ」と噴き出す笑声がした。

 ゲップでも堪えるように、喉の奥でクックッと。ひとしきり笑うのを、わけも分からず眺めた。


「いやすまん、お前を笑ったわけじゃない」

「はあ」

「言う通りだ。私は田村さんに、ご助言賜ったんだよ」


 笑ったままの顔を上げ、お茶を飲む。するといつもの表情に戻った。

 田村卓哉の記憶で笑い、オレと話すにはしかめ面。腹の底にもやもやと、毒の沼が湧き出してくる。


「誰だったか、生徒を毎年送り出すのがつらそうと言った。それが醍醐味とか、少しずつ慣れるとか、そういう相槌があった」


 小学校を卒業する時、オレは泣いた。中学では泣かなかった。クラス替えはむしろ楽しみ。

 それでもつらいと言った人の気持ちは分かる。「はい」と頷き、七瀬先生は? とも思う。


「教師は仕事だ。義務教育でないと言え、高校くらいは普通という意識で生徒も通う。互いにそんな関係をいちいち感情移入したところで、と私は考えた」


 意外な答え。驚きの声も出ず、唾を飲み込んだ。

 鋭い眼に、ぎゅっと力が増す。オレの奥底を見通そうとするみたいに。

 じゃあポニー先輩はどうなんだ。あんなに先生を信頼しているのに、と考えたのはたぶん見えていない。


「私は声にしなかった。だがそのままを言った者が居た」

「田村、さんですね。そんなの、ケンカになるんじゃ」

「だな。私もそう考えたが、争いにはならなかった。アレが言うと、気さくなアドバイスに聞こえるらしい。言い出した者は『気が楽になった』と答えていた」


 真意はどうあれ、それくらい割り切った感じで思い込む。というのはアリに違いない。

 同じ言葉も言う人によって意味を違って取られるのは、身に覚えがありすぎるけれども。


「で、それに腹が立った。本当のところでどういう意味を含ませたか知らんが、私の言葉を奪ったのがな。アレは変わらず、フワフワした教師になるだろう。その時私は、教師以外の道を歩いている。『割り切れなかったんだね』などと、不愉快な亡霊に取り憑かれるのは間違いない」


 不愉快だ。

 なにがどう、というのを自分にも説明できないけど。七瀬先生の歩く道に、田村卓哉の落とした雫が点々と続いているようで。

 知らず、奥歯がキュッと鳴る。


「とまあ、自分の道を自分で決められなかったわけだ。親、親族。たまたま出会った同期に振り回されるだけの、幼稚な人間だよ私は」


 ペットボトルを真っ逆さまに、ほとんど残っていたお茶が吸い込まれる。これで話は終わり、という空気がオレを椅子から立たせた。


「まだあるか?」


 先生も腰を上げた。空のペットボトルを持ち帰る空気で、受け取ろうと手を差し出す。


「いや、ええと。そんな風に思ってるなら、やっぱり弥富先輩のことが」

「あー、そうかもな。しかしそれは別料金だ」


 ペットボトルが掲げられ、オレの頭に落とされる。軽薄に鳴り、痛くもないのにそこを押さえた。

 微笑みもせず「また明日」と先生は出ていった。野球の応援でもするように、ペットボトルを振りながら。


 追いかけても、伝える言葉がない。なにか言うべきと思うだけで、なにを言うべきか分からなかった。

 甘ったるい炭酸がぬるくなるまで、ずっと手の中で転がし続けた。それから結局ひと口も飲むことなく、翌朝のトイレに流してしまった。

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