第40話:逃げ場の作り方
「一年生の時ね、環境委員だったんだけど。凄く優しい三年の先輩がいて、凄く人気があったの。その人がやろうって言うことは、みんな賛成した。ゴミ捨て場の整理とかしてたら、別の委員の人まで手伝いに駆けつけた」
凄く、凄く。ひねりなく、でも力の篭もった声に説得力があった。
ポニー先輩も好きだったんだろうか。先輩が一年生の時、三年生だった人。つまり今は卒業しているはずの人。
頭に浮かんだのは、その人の想像でなかった。聞いて連想した、オレの知っている二人の人物。
「その人になにか――」
「ん? あ、こっちにおいでよ。靴が汚れちゃう」
なにかされたのか。なにかしてもらったのか。
どちらで問うか迷っていると、ポニー先輩に手を引かれた。強く握れば中身のはみ出しそうな、柔らかい感触に。
もちろんカスタードクリームは出てこない。代わりに足下から下品な音がして、泥が飛ぶ。
オレはまだ、ぬかるみの端にいた。撥ねた泥は付かなかったけど、靴が半分近く汚れていた。
先輩の助けがもう少し遅ければ、靴の中へ泥が流れ込んだだろう。
「助かりました」
「えっ、助けたとかじゃないよ。ええと、その。そうだ、環境委員のお話ね」
繋いだ手が引き離され、否定のために激しく揺れた。もっと繋いでいても良かったのに。
それはそれとして、続きも気になる。我ながら頭の中が忙しい。
「なにかは、あったよ。特に最初の一ヶ月くらい、当番が一緒だったし。説明が分かりやすくて、お手本も見せてくれて、親切な人だと私も思った」
「それは助かりますね」
連想したうち、七瀬先生に近いらしい。優しいのは置いて、慕われ方が。そういう人なら、なにかされたわけではなさそうだ。
「助かったけど、当番の終わるころは少し困った。当番じゃない人がたくさん来るようになって、私の役目がとられちゃった」
いつもの、ちょっと困り顔。オレの肩越しに、遠くを窺う。振り返ると、まだ寝転ぶ姿が見えた。
先輩の感情が分かりにくくて困る。性格的には、楽ができて良かったとか言えば叱られそうだが。
「サボったみたいになっちゃいますね」
「そうそう。だから委員長さんにお願いしたの。その人と同じ当番になりたい人を、優先してあげてくださいって」
やはりこの回答で正解だった。いかにもな風に、先輩は頷く。
「それからは話す機会もあまりなくてね、奇数月の委員会の時くらいかな」
「ああ、今月でしたっけ」
「そうだよ。まあ新しく決めることなんて、ほとんどないから。身構えなくて大丈夫」
ポニー先輩の入っていた、環境委員。偶然にオレも同じだ。委員がみんな集まるのは二ヶ月に一度で、一年生は五月から活動を始めると聞いた。
心配するなと、先輩はまた歩き始めた。もうスマホはしまい、純然と散歩のようだ。
そもそもなんの話だったか忘れてる?
と思うくらい、ふらふらっと。
「それで……」
「うん、その人もあんまり話しかけてはこなくて、三年生だから当番も減って。次に話したのは、冬休みに入る前の日」
先輩は足を止めない。でこぼことした草むらだから、速くはないけれど。
誰もいない森に向かう声を、オレは後ろから拾って歩く。
「好きって言われた」
「え?」
「受験を励ましてほしいから、付き合ってって」
なんて唐突な。聞いた限り、告白に繋がるようなやりとりはなかった。
ただ、どういうきっかけがあったかは本人しか知らないし、励ましてほしい気持ちは分かる気もする。
「先輩に笑ってもらうと、ほっとしますからね」
「え……?」
素直にそう思う。のに、今度はポニー先輩が疑問の色を口から発した。首と腰をサビつかせたように、ギギギッとぎこちなく振り向きながら。
そんなことない。と否定されたら、ないことないと自信を持って言える。先輩の先輩だって、きっとそういう――
「あれ。うちの学校って女子校でしたよね」
「う、うん」
訝しむ顔が、赤く染まった。一瞬まん丸になった眼を、ぎゅっと閉じて。
女子校の三年生が、同じく一年生に告白をした。オレの耳にはそう聞こえたけど、どこか聞き違いがあったのか。
その線で正解を探しても、行き当たらない。戸惑って「あれ?」と言うたび、先輩は首を竦めた。
「もしかして女の人が先輩に……」
先輩は頷く。しゃっくりみたいに、痙攣するように。
世の中、そういう人もいると話には聞くけど。目の当たりにしたのは初めてだ。
「で、でもね。断ったの。気持ちは嬉しかったけど、私には分からなくて。すみませんって」
「まあ、それは。うん、どうしようもないですね」
どう答えるのが正解とか、オレに言えるはずもない。単純に先輩が
「うん。そう。その人も仕方ないって言ってくれて、話したのはそれが最後」
「おつかれさまです」
「あ、ありがと」
瞑っていた眼が、ようやく開いた。オレを見つめ、フッと鼻息が漏れる。
「じゃあそのまま冬休みですね」
事件が起きるのは、いつだ。今のところ悪いエピソードがないのだけれど。
もちろんこのまま話し終えたって、文句はない。どんな話でもどうぞと、先を促した。
すると、ポニーテールが横に震えた。
「冬休みじゃないんですか」
「終わりのホームルームの後、だよ。同じクラスの環境委員の子に呼ばれたの。屋上に出る階段のところ」
屋上、とオウム返し。あそこはいつも鍵がかかっていて、屋上には出られない。その前の階段に用事なんて、あるはずがない。
強いて言えばオレみたいなぼっちが隠れ家にして、弁当を食べるくらいだ。
「そこで、突き落とされた。どうして断ったの、って」
「つ、つきお、突き落とされたんですか!」
顔をしかめた先輩は、首を縦に動かした。
ゾクッと背中が冷える。あちこちに鳥肌も立ち、手でさすらなければ凍えそうだ。
「どうしてって。そんなの、ええ?」
「ああ、ごめん。女同士ってよく分からないって、私が答えてからだ。そしたら、バカにしてるのかって押された」
補足してもらっても、さっぱりだ。どこをどうしたらバカにしていることになる。
声にならなかったが、先輩は察したのか、首を傾げてみせた。
「足の小指に、ひびだけで済んだの。でも入院先にも、その子たちが来た。二、三人ずつで二週間、毎日ね」
「怖すぎです」
「うん、怖かった。私の親や看護師さんがいる時には、凄く心配して見せるの。でも見られてないと、別人になる」
どうしてそんなことに。人気のある人の告白を断ったからって、むしろライバルが辞退したならいいじゃないか。
もしポニー先輩が受け入れていたら、祝福したっていうのか。
「それは誰かに……」
「言えなかった。笑いながら、惜しかったって。どういう意味か考えたら、怖くて言えなかった」
これ以上、どう言っていいか。ひたすら頷くしか、できることがない。
その瞬間まで普通に過ごしていたのに、いきなり底の抜けたような絶望。覚えのある感覚に、オレはきっとひどい顔をしていた。
「見嶋くんは優しいね。自分のことみたいに」
「いや、だって」
「大丈夫だよ、もう七瀬先生が助けてくれたから。冬休みが終わっても一ヶ月近く登校できなかったんだけど、先生が家に来てくれたの」
ようやくの登場。しかし、いきなりだ。去年、新任のはずの先生がなにをしたって言うんだろう。
結果を見れば先輩は、どうにか微笑むくらいはできている。
「七瀬先生が、おどしてきた人になにか」
「ううん、副担任だったから来ただけ。担任の先生から書類を預かったって」
「助けに来たんじゃ?」
「助けに、じゃないね。私の部屋まで上がって『どうした?』って、それだけ」
オレとは違い、頼みもしないのになにかしてくれたのかと思った。
登校拒否みたいな時、あのダークボイスを聞いたら心臓に悪そうだ。とても救いの使徒とは思えない。
「うっかり滑ったって答えたの。お医者さんにもそう説明したし。そしたら『もう一度同じに言ってみろ』って」
「怖いですって」
「だね。でも私、同じには繰り返せなかった。怖くて声が震えたの。七瀬先生が、じゃなくて」
オレの後ろ、何十メートルかで倒れている女の子。オレと話す今も先輩は、たぶん半分はそっちを見ている。
「『分かった、任せろ』って。先生、持ってきた書類を破った。後で見たら、退学の届けだった」
そりゃあ信頼もする。誰も助けてくれない、自分さえ自分の窮地を言えない、そんな場所から引き摺り出してもらったなら。
「『お前を強くすることはできん。しかし逃げ場所くらいは作ってやれる』って。どうやったのか知らないけど、先生は嘘を吐かなかったよ」
もし。先輩を救ったのが、経営者の力だったら。それをオレは、がっかりするのか?
悲しげな眉と、遠慮がちに笑う唇。とても可愛い先輩の顔を見ながら考えた。
「きみもさ、先生と話してみるといいよ。がっかりしたって、そのまま言ったっていいと思う」
そうしよう。自分で勝手に答えを出すんじゃなく、聞いてみよう。「そろそろ戻ろうか」と出された手を取りながら、オレは決めた。
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