第39話:穢された水源

 予告から五分遅れ、ログハウスを出た。それぞれ飲み物やタオルを持ち、キツネ女子はワンピースから学校のジャージに着替えて。

 先生も足元だけはローファーから、スニーカーに変わっていた。


 キャンプ客のテントを横目に、登山道へ入った。学校の階段より少し緩い勾配の横を、小川が流れる。チャラチャラと硬い岩に落ちる音が、水の冷たさを伝えた。

 ジャンプしても、たぶん越えられない。ちょうど靴が浸かるくらいの水量に、ポニー先輩が両手を差し入れる。


「ねえねえ、気持ちいいよ」


 誰に向けた言葉でもないだろう。つまりオレが返事をしたっていい。だけどキツネ女子がなにか言うかなと一瞬、声を遅らせた。


「失礼します」


 歩くところと小川とは、二十センチほどの高低がある。銀縁メガネを押さえつつ、ゆっくりゆっくり歩み寄った。

 小さな川辺に女子が二人しゃがみこむ。いつもなら、十分前なら交ざりたいと思ったはず。

 でも今は、三歩後ろから覗き込むだけにしておいた。


「これが瀬戸内海まで続いてるなんて、気が遠くなりそう」

「そうですね。ここが源流ではありますけど、途中で数えきれないほどの流れと合わさって」


 登山道と小川は、常に沿ってはいなかった。高低差が大きくなったり、間の木々が目隠しをしたり。

 でも最後にまた合流するのは間違いない。キツネ女子の言う通り、この道が芦野川あしのがわのスタート地点へ続いている。


 先輩の好きなオオサンショウウオの話。その舞台が、この芦野川らしい。もちろんここまで山奥ではなく、もう少し下流と思うけど。


 先輩は歩きながらあちこちにスマホを向け、もう何十枚も撮影していた。

 登山道は大小の石を敷き詰めたようで、足場が悪い。転ばないかヒヤッとしたのも、もう何度めか。


「芦野川にはね、サンショウウオがいなくなったんだって」


 また足が止まり、写真を撮り、膝を曲げ、一行で二番目に小さな手が伸びる。そこにはスナック菓子の袋が、落ち葉に埋もれた。


「河口まで、綺麗な景色を収めようと思ったのにな」


 これはたぶん、ひとり言。大きく吐いた息は、山道のせい。しかしキツネ女子が頷き、大きめのレジ袋を開いて差し出す。

 既に袋は、ゴミで膨れた。キャンプ地から気軽に行ける名所、と考えれば当然の帰結だろう。


 悲しいと思う。だがお前はどうかと問われれば、遠足でお菓子の袋を風に飛ばされたこともある。

 だいいちこうして目にしなければ、常々なにか考えたりもしない。


「先生、大丈夫かな」


 再び踏み出す前に、先輩は振り返った。オレも倣うと、蛇行する登山道が遥か下まで見通せた。登り口も見えているかもだが、遠くて見分けがつかない。

 ゴミに目を瞑れば、豊かな自然のただ中。三十メートルくらい下に、パンツスーツの女の子がふらふらと歩く。


 登山道は、およそ広い。時々、土留めの丸太が埋めてあって、注意すべきは石だけだ。

 小川と反対の斜面を頼りながら、先生は進む。半端に大きな石へ足をかけ、ぐらっと倒れそうになりつつ。


「大丈夫ではなさそうです」

「うん。でも、構うなって言われちゃったし。どうしよう」


 おいてけぼりにする気はない。先輩は言葉の通り、何メートルか行くごとに先生を待っていた。もちろんキツネ女子も、オレも。

 だけど当人が「鬱陶しい」と気遣いを嫌がった。ソファーを運んだ時と同じだろう、きっと。どうしてそんな意地を張るか、まるで分からない。


「ねえ見嶋くん、先生のところに居てもらえないかな」

「――え、オレですか?」


 ほんの僅か、答えるまでに空白が挟まった。

 ひとりだと危ないのは、もちろんだ。七瀬先生はいい人だし、嫌がる理由はない。極めつけに先輩からの頼みとあっては、すぐさま二つ返事のはずが。


「ええと、うん。男の子だし、転びそうになっても支えてあげられるでしょ。それにきみなら、先生も素直に助けられてくれるかなって」


 私たちも見える距離にいるから、と先輩は両手を合わせる。

 そんなことしなくても、あなたの頼みを断りはしません。笑顔で返したつもりだが、うまくいったか怪しい。そういう芸は、もともと苦手だ。


「どうか分かりませんけど。行ってみます」


 下り始めると、小石が転がる。オレが滑るのもだが、七瀬先生のほうへ落ちたら危ない。向かうより、待つのを多めで合流する。

 目前に来た先生は顔を上げ、しばらくオレを睨みつけた。口から出てくるのは、ぜえぜえという音しかないけれど。


 オレもなにも言わなかった。手を貸すと言っても、大丈夫ですかと気遣っても、藪蛇に違いないから。

 手と声を出すのは、もしもの時。それ以外は、ただ傍に居るだけ。そう考えながら、行き過ぎる小さな肩を目で追った。


 それから先生が、立ち止まることも転ぶこともなかった。一時間くらいかけて先輩たちに追いつき、開けた平地の草に倒れ込むまでは。


「任せてごめんね。ありがとう」

「いや、なにもしてないんですよ」

「うん。なにもなくて良かった」


 登山道はまだ続いている。山頂までの半分くらいに、ちょうど休憩所みたいな場所だ。斜面を横に巻くように、平たい地面が続く。

 二十歩も先へ、水溜まりが見える。そこに青い立て札で、芦野川水源と示されていた。


 ふっと微笑み、先輩は労ってくれた。ルの字の眉も健在で。そのまま七瀬先生にも視線を向け、心配を増した苦笑もする。


「もう写真はいいんですか」

「見嶋くんは平気そうだね。うん撮ったけど、もう一回行ってみようかな。一緒に来てくれる?」

「え。ええ、もちろん」


 せっかく来たものの、絶景とかいう言葉からほど遠い。ただの草むらの中に、雨上がりで水が溜まったようにしか見えない。

 そこから沢に流れ始めるところとか、写すポイントは大してないと思う。


 けれども先輩が言うなら、断りはしない。ちょうどキツネ女子も、小さな扇子で先生を扇いでいるし。


「ねえ、なにかあった?」


 並んで歩いて、まだ五、六歩。スマホを両手に構えながら、先輩は問う。

 思わず、聞こえたんじゃ? と先生を振り返った。


「やっぱり。どうしたの? 私で良かったらだけど、教えてよ」

「あ……」


 カマかけだったらしい。先輩は、なにかあったかとしか聞かなかった。なのにオレは正直に、原因の方向を気にした。

 どうもごまかすのは難しそうだ。そのまま歩き、なるべく距離を取りながら、ぽつぽつと喋る。


「なにかってほどじゃ。オレが勝手にがっかりしただけで」

「がっかり?」

「七瀬先生、うちの学校の経営者側らしいんですよ」

「うん?」


 二回のキャッチボールで、先輩の首も二回傾げられた。


「知りませんでした? 七瀬学園のこと」

「それは知ってるよ。学校のサイトにも、よく見れば書いてあるし。それでどうしてがっかりするのかな、って」


 先輩も同じと思ったのに、すぐさま覆された。

 並んで足元を気にしつつ、ちらちら見上げてくるのが可愛い。こんな人に、どうでもいいモヤモヤしたことを言うのが嫌だ。


「うーん、なんでしょうね。初めて会った時、朝っぱらから寝てたんですよ。お菓子とか食べ散らかして。部室を作るって言ったら、校則とか大丈夫なのかって感じで」

「うん」


 あまりにも普通に、ひと言の相槌。前に話したのを忘れているのか? 自分の記憶を疑う。

 いやまあ先輩は、オレより先生との付き合いが長い。オレだけが知っている秘密みたいに考えるのが、そもそもおかしいのかも。


「オレ、学校に居場所なくて。でも文芸部があれば、一年間たえられるかなと思えて。たぶんそれは先生が、先生っていうより仲間と思えたからかな。と、いま話してて思いました」


 見た目に水気のない黒土が、ぐちゃぐちゃと鈍く鳴く。スポンジを踏んだような感触と、ちょっと遅れてしみ出す大量の水。

 先輩はオレの足に向け、シャッターを切る。


「あのね。私のことなんだけど、聞いてもらっていいかな」

「はあ、もちろん」


 湿地に埋まった石を、意外に機敏な動きで先輩は渡っていく。またただの草むらまで行くころには、やっぱり靴が真っ黒になったけれども。


「七瀬先生が居なかったら、私は学校を辞めてたと思う」


 油断した。オレの足は止まり、先輩だけが進む。四歩、そこでポニーテールがぐるんと回って見えなくなった。

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