第37話:欲すれば見える
車へ戻るには、また藪を踏み倒す必要があった。たった十分ほど前に倒した跡は、どこだかほとんど見分けがつかない。
骨の折れる作業だが、距離は分かっている。オレ以外にやらせる選択肢があるはずもなく、力任せにとっとと終わらせた。
「見嶋くん、待って。そこに座って」
「え?」
体育の授業よりも汗をかき、助手席のドアを開けた。すると三番目を歩いていたキツネ女子が、たたっと足音をさせて駆け寄る。
言われるまま、スライドドアを開けた床に座った。なにごとか眺めていると、肩にかけたポーチから消毒薬が取り出された。
「あれ、いつの間に」
キツネ女子の視線を辿ると、オレの左手に血が垂れていた。袖を捲ってみれば、前腕に五センチくらいの切り傷ができている。
車を降りた時、カーディガンを脱いだ。薄い長袖シャツだけになったから、枝先とかが突き抜けたんだろう。
「ほかにはない?」
「ええと、どうかな」
手際よく血が拭き取られ、ばんそうこうを貼ってもらった。問われても自覚がないので、反対の袖やズボンの裾を全て捲ってみる。
すると脚にもいくつか傷があった。どれも放っといたっていいけれど、手当てすると言うので甘えることに。
「ごめんね。見嶋くんだけにやらせたから」
キツネ女子の手もとを、オレの後ろを歩いていたポニー先輩も覗き込む。あらかた終わったところで、ふっと顔がこちらを向く。
眉だけでなく、唇もきゅっと窄まっている。先輩自身が怪我をして、痛みを堪えるみたいに。
「全然ですよ、言われなきゃ気づかなかったくらいで。先輩や明椿さんに怪我させるより、オレのほうがいいですしね」
「うん、ごめん。ありがとう」
先輩のつむじが見えた。そんなにしてもらうことじゃ全然なくて「いえほんとにっ」とオレの声が慌てる。
それなのにキツネ女子まで立ち上がり、先輩と並んで頭を下げた。
「見嶋くん、ありがとうございます」
「いやもう勘弁して」
あれくらいで流血とは、むしろカッコ悪い。その上こんなに心配されると、自分のどんくささに気づいてしまう。
どんな顔をしてればいいんだ。対応に困ったオレは、「大丈夫だから」と助手席へ逃げ込んだ。
気づきもしなかった小さな傷たちが、チクチクと痛痒い。
***
来た道を十分ちょっと戻ると、最寄りの集落に出た。ここには人の姿も、車の往来もある。
獣頭の主人公を書いた作者は、この街に住んでいたらしい。それも十五年くらい前まで。
街と言っても、雨滲みで真っ黒になった木造の家ばかりが四、五十軒ほど国道の左右に並ぶだけ。
ちょっと遠くへ視線を投げると、五軒とか十軒くらいがぱらぱらと遠巻きに集まる。そういうのを全部合わせて、ようやく百何十軒を数えられるだろう。
真ん中を走る国道も、振られた番号は三桁も中盤。センターラインさえない路肩には、好き勝手にプランターが置かれた。
突き出た
作者の住んでいた家が、身内によって博物館になっているらしい。しかし駐車場はないようなので、街の外れの空き地に車を駐めて歩いた。
「あっ、明椿さん危ない」
オレの右隣を歩くキツネ女子は、前を見ていなかった。おかげで目の前に迫るタバコ屋さんの看板に、頭をぶつけそうになる。
オレの声でピタッと立ち止まり、危うく回避したけれど。
「危なかったね。私がそっちに行くよ」
「すみません」
左隣のポニー先輩がオレの背中を回り、右へ。提案に従うキツネ女子は、前を回って左へ。
なぜか二人はオレを挟んで歩き、街並みのあれこれを言葉にして楽しんだ。
「タバコ屋さんが郵便局もやってるんだね」
タバコの看板とは反対の軒に、簡易郵便局と書き添えられた郵便マークがかかった。背の高くない先輩はそれを指さしながら、下をくぐる。
先月の雑誌が並ぶ書店。売り物のない鮮魚店。やけに専門工具の揃った金物屋さん。
代わる代わるに発見を告げる二人の声を、オレはただ真ん中で聞き続ける。もちろん指さされたほうに視線を向けるくらいはするけれど。
それよりも考えるべき。いや、考えずにはいられない事態が起きている。
これはまさか。今オレの位置は、両手に花というやつでは?
この世にそんな夢物語の存在を聞いたことはある。でも生きているうちに現実になるなんて信じられない。
もしかすると現実のオレは、さっきの消滅集落に置き去りなのか。尽きようとする命の間際に見る、幻想なら納得する。
それならもう、帰れないってことだ。ばあちゃんに心配をかけてしまうけど、誰か伝えてほしい。オレは本望だよ、と。
「おい、どこへ行く」
オレの腕を、小さな手がつかんだ。ポニー先輩より、キツネ女子より、確実に小さいと肌で分かる。
「えっ、なんです?」
「アホか、お前の行き先だろうが。お前が見失ってどうする」
引き戻され、見回す。左右に居たはずの花が、一軒手前で立ち止まっていた。
揃って不思議そうにオレを見る二人の前に、博物館と書かれた看板が見えた。
「ええと。すみません、ちょっと考えごとを」
「なんでもいいが、しゃきっとしろ。天下の往来だ」
みぞおちの高さから、じとっと睨まれた。怒っているのでなく、たぶん訝しんでいる。
たまらず目を逸らし「はい」とだけは返事をしたが、きっと鼻の穴が膨らみきっていた。
気を取り直し、建物の中へ。
博物館と銘打たれても、外見は周りの家と似たりよったり。作者が住んでいた家を改装しただけだから、当然だけど。
入場料は無人の料金箱へ百円となっていた。四人分まとめて、七瀬先生が払ってくれる。
二枚引きのガラス戸の先は、学校の教室みたいなフロアタイルが敷かれた。
まず目の前に、作者が生まれてから亡くなるまでの年表が。その周りへ、雑誌の切り抜きが額に飾られる。
立ち入れるスペースの全体は十畳くらい。いちばん奥の一角が、赤いロープとポールで区切られていた。
そこに古びた机と椅子が見える。並んで、四段の本棚が一つ。
説明を読まなくても、作者の部屋の再現と分かった。真っ茶色に変わった畳と、焦げ茶の家具。ばあちゃんの家の、オレが寝起きする部屋と言われたら一瞬信じそうだ。
ロープの間際で、じっと見つめる。ふと気づき、窓から見える外へ顔を向けた。
街の人が、二人連れで通り過ぎていく。中年のおばさんと、たぶんその娘。どちらもこの建物を、ちらりとも見ない。
首だけを回し、背中を見送る。入り口のガラス戸も、やはり二人連れは気にしなかった。
「あの机で名作が生まれたんだね」
ポニー先輩の声がすぐ近くで聞こえた。さっと振り返れば、音もなく隣に来ていた。
「め、名作なんですか」
ほかに客もいない空間で、先輩の肩がオレの腕に触れる。その一点を中心に、身体の強張る感覚に陥った。
自分から動けば、下心があると思われるかも。いや間違いなくあるけれども、正解されるのは恥ずかしい。
「そうだねえ。何千万部も売れたみたいだから」
「凄いですね」
ひねりのない答えだ。そうと気づいたのは「凄いね」と返してもらってから。
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