朽ちかけた家って、何だか迫力ありますよね。心霊的な要素がなかったとしても。
かつて確かに人がいたのにいなくなってしまったという事実が怖いというか。誰かの人生の終わりがあったわけですもんね。
興味本位の心づもりにはちょっと重すぎる。
ともあれ、女子と触れ合えたのはラッキーでしたね。無邪気にそう思っていいよ!
作者からの返信
すずめさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
家そのものや周囲の雰囲気にもよるんだと思いますが、廃墟でも清々しいのとそうでないのがありますよね。
生活のにおいのする物が、使われている途中みたいな格好で落ちていたりすると、それを見ている自分がひどく場違いに感じたりします。
今日のお話の行雄くんはサメの捕食シーンを連想したあたり、見てはいけないものと感じたようです。
誰かの人生の終焉。気軽に見物できるものではないですね。
ポニー先輩とキツネ女子こと明椿さんも、何らか怖い気持ちになったみたいですね。
行雄くんと先生とのやりとりで、持ち直したようですが。
普段ならラッキーと鼻の下を伸ばしきっていたんでしょうけど、そうもいきませんでしたね。
次の行き先ではどうなりますやら。
偽善って、言葉が独り歩きする場合もありますよね……。そんなつもりがあってもなくても。まあ、言われた所で、自分もボランティアをしていた頃を振り返り、そういう考え方も受け止めて、我が道はそれはそれでいいかと、今なら思いますね。しかし、寂しいの方もいるようで、限界集落を訪ね歩いても、「おめさ、どこさ、きたか?」しか言われんような気もする。人と会えたらね。
作者からの返信
続いてこんばんは。
偽善という言葉の意味、またその行動について、解釈はさまざまですね。
そもそも偽善とは善に属する何かがあって、それに比較しての評価なわけです。
では善が絶対の価値をもつもので、必ず肯定されるべきかというとそうではないです。
善悪とはその人の立ち位置、つまり評価者からの観測方向によって意味を変えるものですから。
(よくある例え話でいうと、仇討ちは善か悪かというのがありますね)
結局は仰るように行う人、当人がはっきりと意思を持つ以外に評価を確定させる方法はないのだと思います。