第35話:世界を変える代償
「朝食は、きちんと食べるほう?」
「今は食べるね。ばあちゃんが作ってくれるから」
「おばあさまと一緒なのね」
午前七時近く、急に話題が変わった。その前はゆうべの寝心地がどうだった、とかを話していたのに。
「一緒というか、実家が遠くて。居候させてもらってる。腹減ったの?」
「ええと、ううん。いつも六時過ぎには食べ終わってるから、どうなるのかと思って」
縦か横か、微妙な角度で首が動く。どうしたのか俯き加減で、テーブル下の手がお腹を押さえているようだった。
「火を使っていいらしいから、厨房に行けばなにかあるかも。でもオレ、料理したことないんだよね」
「簡単な物ならできるけど、勝手にやっていいのかな」
お茶っ葉くらいはともかく、食材を使うなら許可を取りたい。意見が一致してそのまま待ったが、責任者が現れるのは七時半を過ぎた。
「遅くなってごめんね。七瀬先生、朝が弱くて」
デニムのズボンと、ボーダーのパーカー。なんの変哲もない服装が、どうしてポニー先輩だと可愛く見えるんだろう。
百五十センチくらいの女子が、百四十センチない女の子を引き摺る姿も。
「食材でもなんでも自由……に、使って良し。しかし今朝は食いに行……くか」
今日最初の予定時間が迫っているので、外食にするらしい。彼岸花みたいな頭で、目も開いているのか怪しいけれども。
臙脂とグレーのジャージは、袖とズボンの一方がずり上がっていた。どういう寝相をすればこうなるのか、純粋に見てみたい。
胸にアルファベットで、ヒジワラガクエン、ナナセと刺繍があった。どうやらこの方も先輩らしい。
熱いお茶を飲ませても目覚めないので、ポニー先輩と二人して浴場に押し込む。
しかし、それからは早かった。
車で五分の距離に大きな街があり、そこで朝食バイキングをやっているファミレスに入った。
一行の三人までは洋食か和食かの違いはあれ、まあ普通の朝ごはんだったと思う。ただ一人、パスタやカレーも含めた四人前以上を食べたのが誰か。これもまったく予想通りだ。
それから朝九時に門の開く施設へ、ほぼその時間に到着した。
ゲートをくぐると、売店のある大きな広場。案内図片手に、目当ての建物へ向かう。車一台分のアスファルト舗装が、管理された緑の合間を縫う。
「巻きましたね」
「時間は自分で作り出すものだ」
涼しく抜ける風に、野性味が薫った。宿泊所を出てからの早業について、半分は褒めて言う。
すると隣を歩く女の子は、ニヤと横目にパンツスーツの胸を張る。
「寝坊もですね」
先の発言は、時間の価値は使用法で決まるという意味になる。
余裕を失ったスケジュールを効率的に動いて帳消しにすれば、朝の惰眠も意図的なものと言い張ることが可能だ。
「ふん、当然だ」
肯定的な解釈で答えたのに、なぜだか睨まれた。
中学生以下の幼い見た目では迫力なんてないはずだが、どこか深いところから湧き上がるような威圧感がある。
怯みつつ、アホかと言われなかったのがちょっと寂しい。
「あっ、ここだよ」
前を歩く女子二人が止まり、振り返る。たしかに背後へ見える小さな門に、ふれあい動物エリアとあった。
ここはポニー先輩ご所望の、オオサンショウウオが居る動物園だ。
ここまでスルーしてきた大きな檻と違い、エリア内は放し飼いになっている。
中央の池にカメとアヒル。奥の屋根が付いたところにはウサギ。どこということもなく、そこらじゅうを歩き回るインコ。
そういう一角を、波板で囲われた小屋が占めた。薄暗くされた中には、たくさんの水槽が見える。
ポニー先輩はほかに目もくれず、小屋の中へ突き進んだ。
「私は待っていよう」
「はあ」
離れたベンチを指さし、引率の女の子はそこへ向かう。まさか硬そうなあれを寝床にするつもりか。
ほかの客はまだ、入り口近くのサル山やフラミンゴを見ているはず。だからここには誰も居なくて、迷惑にもならないだろうが。
さておき付き添ってもつまらないので、先輩を追う。たぶん興味はないだろうに、キツネ女子も一緒だからだ。
この状況から単独行動をとればプロのぼっちになれるけれど、あいにくそんなストイックはオレにない。
「ふわあぁ、小っちゃくて可愛い!」
「へえ。幼体もあまり変わらない姿なんですね」
歓喜の声と、研究者みたいな分析。
理科室にあるような大きな水槽が三段積まれ、それが四列。さらに正面と背後の壁の二面あるので、都合二十四の水槽に二人は挟まれていた。
また別に虫カゴサイズの水槽もあり、先輩が食いついたのはそれだ。たぶん産まれたばかり専用とか、そういう容器だろう。
キツネ女子は一つずつの水槽を、大きさ以外は違いの分からないオオサンショウウオを見比べて歩く。
オレはどうしよう。一瞬迷い、ポニー先輩の隣へ並んだ。小さいほうが、まだ見るに堪える。
「サンショウウオってね、狭い岩から出られなくなっちゃうでしょ」
「え? ああ、物語の」
そういう生態かと勘違いしそうになった。そんなわけもなく、先輩の研究対象のお話と理解する。どんな内容だったか、思い出せていないが。
「うん。この子たち見た目も可愛いんだけど、私が好きなのはそれだけじゃなくて」
「というと?」
前半の言葉は聞き流す。美的感覚にとやかく言う必要はない。
細かな砂利に半分埋まる、茶色い塊。成体よりも、おどろおどろしい色でなかった。それでもトカゲかイモリかという形は、好んで触れたい感覚から遠い。
それを先輩は匂いを嗅ぐように顔を近づけたり、下から覗きこんだり。まさに、ためつすがめつという感じで堪能する。
「ずっと岩の中にいるのは、怖いだろうなって」
「うーん、一生ですよね。そりゃあ怖いです」
当たり前だ。でも動物園という場所が、答えに自信をなくさせる。
しゃがんでいた先輩が振り向いて見上げ、頷いた。それから立ち上がり、優しく撫でるように水槽へ触れる。
「そうだよね。でも同時に、岩の中って誰にも触れられない、怖いもののない世界なんだよ」
「あー、かもです」
閉じ込められていたら、食事はどうするのか。疑問に思っても、言えば知らないと悟られそうだ。
当たり障りのない返事だけ。という縛りも、先輩と話せることの前では全然構わない。
「安全な場所で、外の生き物の悪口を好きなだけ言える。すっきりするのかもしれないけど、やっぱり怖いなって」
束縛と関係なく、相槌を打てなかった。言ったことそのものの意味は分かっても、その先どんな言葉に続くのかまるで読めない。
ええと、なんて間を繋ぐこともできず、ただ首を傾げる。
「伝わるかな。サンショウウオは安全と思ってるけど、そうじゃないの。ほかの生き物はサンショウウオの存在を知らない。無関心でさえないんだよ。サンショウウオがそこに生きてることは、誰にもなんの関係もない」
もちろん死んでもね。と付け加わったのは、あまり意味がなかった。
はっきり完全に理解したとは言えないけど、足下が水底へ着いたように思う。日の届かない暗がりの、冷えた砂に沈む。
「ああ、はい……」
答える言葉が見つからない。弥富先輩はオレをおどかしたわけじゃなく、オオサンショウウオについて思うところを語っただけだ。
それでなにを言えばいい? なまじの共感も失礼な気がした。
「怖いって言う意味は伝わったと思います」
だから結局、言えたのはこれだけ。毒にも薬にもならない、読みましたと回覧板にハンコを押すみたいな言葉だけ。
「だからサンショウウオは、仲間を求めたんじゃないですか?」
不意に、後ろから声がした。オレは驚いて、先輩はゆっくり頷きながら振り向く。
小屋の出口へ行き着き、また入り口から戻ったらしいキツネ女子がそこに立つ。
「意地悪をしてしまっても、仲間だった。相手も理解して、一緒に居ることを受け入れた。岩の中っていう世界を変えるには、関わる登場人物がみんな傷つく必要があった」
銀縁メガネに似合う言葉に、ポニー先輩は何度も首肯した。オレには意味が分からなくて、共倒れの結末だったかなと想像する。
「だから好きなんだよ。私はサンショウウオになりたいの」
丸みを帯びた小顔の中に、ルの字を描いた困り眉。弥富鈴乃先輩は、今までで最高に口角を上げ、眉間のシワを深くした。
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