第34話:明かされる素顔

 明けた朝、目覚めは良くなかった。それはまったく、ポニー先輩のせいと言える。

 健全な高校生男子にあられもない格好で話しかけて、落ち着いて寝られるとでも思っているのか。


 完全にオレがバカだからです、すみませんでした。

 という微かな心の声は無視し、風呂での会話を反すうし続けた。先輩を責めるのは、その言いわけだ。


 午前六時前。五時間くらいは寝たはずだが、徹夜したように思考が鈍い。気怠いまぶたが開けるに重く、閉じるのも面倒だ。

 こういう時、どうすればいいんだろう。起きてる人いますか、と探しに行くのがナシとは分かる。スマホがあれば、様子を聞くくらいはできたのか?


 とりあえず喉が乾いた。ゆうべ買った紅茶は空だし、冷たい物が飲みたい。自動販売機くらいあるかな。避難経路図を頼りに、フラフラと部屋を出た。

 階段を下りてすぐ、浴場とボイラー室。建物の裏へ出られる扉もあった。トイレ、倉庫、管理者控室。まっすぐな廊下に、飲み物を入手できそうな場所は見当たらない。


 隙間の壁を聞いたこともない画家の絵が飾り、合間に観葉植物が鉢で置かれた。造花ではなく、管理者とやらが世話をしているんだろう。今は居る気配がないけれど。


 なにもないじゃん。正面玄関まで辿り着き、「えー」と不満が漏れた。

 しかしどうしようもない。諦めつつ悪あがきで見回す。と、脇の奥まった壁に食堂とプレートが付いていた。


 そうか、火の元がどうこうって。火を使っていいなら、冷蔵庫があるかも。

 期待を篭め、泊まる部屋と同じ木目調の扉を開く。中は広かった。ばあちゃんの家の六畳間が、三つくらい入るかも。


 塩やコショウのセットされたテーブルが八つあって、手前の壁に厨房への扉が見える。

 冷蔵庫は――あった。もちろん厨房にもあるだろうが、道路側の壁に電子レンジなんかを置いた流し台が設けられている。

 その隣に、普通の家庭用冷蔵庫が。


「う……」


 カラカラの喉が、足を駆けさせようとした。でも理性が引き止める。

 流し台の端。ガスレンジを前に、ベージュのワンピースを着た背中があった。一つに縛った髪は長く、この建物内の女性から一人が脱落。


 頭の位置が高い。低く下りたレンジフードから、そう離れていなかった。

 すると候補は、キツネ女子のみ。栗色でない、墨に浸けたような髪色もそうだ。

 背を向けたい衝動と、オレの理性が戦う。


 ポニー先輩の言葉は意識になかった。

 水の沸く音もしっかりと聞こえるこの部屋で、オレの侵入は気づかれているはず。その上で逃げ出せばカッコ悪いし、文句を言われるネタになる。


 ふう。

 心の中でため息を済ませ、ゆっくり歩み寄る。去る選択肢がないなら、動かないのも怪しい。

 自然に歩こうとすると、左右交互に足を出すのもおかしくなった。超スローなツーステップで、あと十歩ほどに近づいた。


「おはようございます、見嶋くん」


 右足を引き、かかとを軸にくるり。教科書通りの回れ右で、キツネ女子はこちらを向いた。

 手にした文庫本を閉じ、両手を揃えて頭を下げる。


「お、おはよう。ございます」


 慌ててオレも頭を下げた。頭というか、ベコッとカエルのおもちゃみたいに腹を縮ませ、すぐに伸ばした。

 シュンシュンと、小気味いい蒸気の音。十リットルも沸かせそうな、でかいヤカン。


「お湯?」

「ええ、そう」


 見たままを言い、肯定された。たったこれだけで、次の言葉に困る。

 話してみろって、なにを?

 同じ一年A組の人間に、心配かけてるみたいだねとか言えるはずもない。かといって共通の話題も。

 いや、あった。


「家が剣道場だと、朝が早い?」

「そうね。両親は四時に起きて、私も五時前には着替えて朝ごはんの手伝いとか」

「早っ」


 想定より、全然早かった。

 言われてみればキツネ女子は、もうこのまま出かけられそうな格好をしている。

 対してオレは寝間着に持ってきた、綺麗めのスウェット姿。


「良かった」

「え、なにが?」


 真横に棒を引いたような口もとが、ふわっとゆるむ。分厚そうなレンズの向こうも、柔らかく弧を描いた。

 見られていると縫い付けられそうなよりいいけれど、突然に変化した理由がさっぱりだ。


「見嶋くんのこと、不良かと思っていたから」

「ふ、不良?」


 普段使いの辞書にはない言葉。意味を検索する暇が、秒未満でかかった。

 発言した当人はチョイスを誤った空気もなく、こくりと首を上下させる。


「ツッパリまでではないみたいだけど、そういう人に憧れてるのかなって。ごめんなさい、実はちょっと怖がってました」


 不良。ツッパリ。

 いつの時代の人だ。いやそれは置くとして、どこをどう見たらそうなる。


「なんでそう見えるか分かんないけど、知っての通りヘタレだよ」

「初日から居眠りしてたし。北校舎で話しかけた時も、機嫌を損ねてしまって。人と関わりたくないのかと」


 そんなことは。あったな、たしかに。今さらその時の心情を説明もできないが。

 なぜ首を横に振る。ヘタレと言ったのを、否定しているのか? 不良という評価は綺麗さっぱり捨ててほしい。


「いやまあ、そう見えたかもだけど。たぶんオレ、会話がヘタクソなんだよ」


 今度は頷く。しかしすぐには声が続かない。あからさまに目が泳ぎ、発すべき言葉を捜していた。


「ええと。そう、それも良かった。私も会話がヘタで、同じと思ったら親近感が持てそう」

「そんなことないだろ。オレよりちょっとうまいって」

「ちょっと、ね?」


 ちょっと。を手で示し、キツネ女子は鼻から息を抜くように笑う。人さし指と親指は、くっついて輪になっていた。


「お茶を淹れようと思ったんだけど、見嶋くんも飲む?」

「いいの?」

「もちろん。と言っても、ここにあったお茶だけど」


 冷たいのが良かったな、と冷蔵庫に意識が向く。だがせっかく言ってくれるのを、要らねえと返す度胸はない。


 水玉模様の湯呑みを二つ渡され、手近なテーブルに置いた。キツネ女子は既に急須を用意していて、沸いた湯を肩の高さから注ぐ。


「ところで見嶋くん」

「なに?」

「私の家が道場をやってるって、よく知ってるのね」


 ふきんをかけた急須をそっと運びながら、直前と変わらない声でキツネ女子は問う。

 目が足元へ向いていて良かった。オレの顔には全面に、やべえと書いてあったはずだから。


「いや、その。ほら、ゆうべ」

「ゆうべ? ああ、そうね。弥富先輩とそんな話をしたんだった」

「そうそうそうそう」


 ごまかせたか、ごまかされてくれたか。定かでないが、やり過ごせそうな勢いに任せた。

 キツネ女子はオレの前を過ぎ、テーブルの反対の椅子に座る。


「あっ」


 なぜか彼女は急須の蓋を開けた。密集した湯気が顔を直撃して、小さく声が上がる。


「大丈夫?」

「うん、レンズが曇って驚いただけ。山の中だから気温が低いのかな」


 緊迫感がなかったので、やけどの心配はしなかった。返答もやはり平和なものだ。

 ゴソゴソと腰の辺りを探ったキツネ女子の手に、がま口形のポーチが現れる。さらに中からメガネ拭きと小さなスプレーが取り出された。


「そんなに寒くは感じない――」


 世間にいくらでも転がっている、気候の会話。難しく考える必要はなく、自分の感じるままを言葉にすればいい。

 でもオレの声は途切れた。もうひと言くらい続くはずだったのに、なんだったか忘れた。


「そう? 私はちょっと寒い。もう一枚着ないと」


 答えるキツネ女子は、丁寧にレンズを磨いた。つまり顔からメガネを取り、手に持って。

 銀縁がなくなると、印象がガラリと変わる。なんていう名前だったか、ドクターヘリのドラマに出ていた個性派の女優に似ていた。


 好みは分かれるのかもしれない。けれども再びメガネが装着されるまで、凛とした素顔からオレは目を離せなかった。

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