第33話:夜の悲鳴
「今日はもう遅い。各自、明日に備えろ」
車から荷物を降ろすと、すぐに解散が言い渡された。最近聞いたような言葉で、ではこれから移動ですかと問いたくなる。
しかしそれより、施設に冠された七瀬の名が気になった。
正面のガラス扉を開け、ずんずん奥へ向かう小さな背中に、何度問いかけようと思ったか。
最奥の階段を上り、二階は全て宿泊者用の部屋らしかった。まっすぐの廊下の左右に、同じ間隔で片開きの扉が並ぶ。
「別にどこを使っても構わんのだが、一応決めておこう。手前から弥富、明椿、私の順だ」
「あれ、オレは」
「アホか。私の隣に決まっている」
それぞれ鍵が渡され、オレには放り投げられた。それはいい。
同行の女子たちとオレの間に、なぜ教師が挟まる。押しかけたりとか、無粋なことをすると思われたなら心外だ。
隣同士で窓を開け、夜空に向かって語り合うくらいしか妄想していなかった。
「では、おやすみ。建物内は自由に使っていいが、火の元にだけは注意すること」
もっとも幼く見える人物がもっともらしく注意事項を告げ、大きなあくびで自室へ消えた。
残された三人、目配せで苦笑を浮かべ合うしかない。その中にキツネ女子もいるわけで、最初に目を逸らしたのはオレだ。
「じゃ、じゃあ。おやすみなさい」
「うん、ゆっくり休んでね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ニットの袖から指を覗かせ、ポニー先輩が手を振ってくれた。その隣で白いワンピースのキツネ女子も、深々と腰を折る。
手を振り返していいものか迷い、挙手したみたいになった。閉じていく扉の向こうをいつまでも見ていたいような、早く閉ざしたいような。
横目に照明のスイッチに触れ、木目調の扉が視界を塞ぐまで静かに待った。いや閉じてからも、白いプラスチックの板に描かれた避難経路をなぜか熟読してしまう。
さて。
室内に向き直ると、二畳分の通路の先が広がっていた。学校の机くらいの小さなデスクと、デスクライト。もちろん椅子とシングルベッド。
それぞれ使うのにまったく支障ないが、余分なスペースもない。こぢんまりとして、研修が目的なら落ち着くのかも。
スリッパがあったので、スニーカーを脱いでみた。毛足の長い、しかししっかりと直立する絨毯が気持ちいい。調子に乗って、靴下もベッドに放る。
移動の車内も快適だったから、解放感に「のびのびできる」という感覚はない。
ベッドも気持ち良さそうだ。しかしすぐに寝転んでもな、という気持ちが強い。疲労感がないから、だけではなく。
もう少し部屋を探検しようにも、クローゼットとユニットバスしかなかった。
しまった、暇つぶしできる物がない。できるとすれば調査用のノートに落書きするくらいだが、あいにくと絵だけはヘタクソだ。
おとなしく寝るか。
諦めてデスクに置いたバッグを持ち上げた。するとなにやら、クリアファイルが床に落ちる。
「風呂か」
入浴方法の案内だ。シャワーはボイラーを焚かないと使えないが、湯船は温泉を引いているのでいつでも入れるとあった。
「外れてもない、ね」
学校から帰って風呂には入ったけれど、気分転換ができそうな気がする。
どうしようか、迷うふりも束の間。バッグからバスタオルやらを取り出すことにした。
***
脱衣場から風呂場へ、二枚引きの扉を抜ける。磨りガラスに透ける景色がどうも暗いと思えば、そこは屋外だ。
自然石とコンクリートで作られた、岩風呂と言うんだろうか。詰めれば十人でも入れそうな湯船の上に、藤棚みたいな天井がかかる。
灯りはその天井に一つと、建物の壁にある蛇口のところへ三つ。高い竹垣で周囲はまったく見えないが、おかげで夜の底へ来たような気持ちになる。
僅かな風にそよぐ草葉の音と、悲鳴みたいな鳥の鳴き声。ばあちゃんの家で聞いてなければ、本当に女性が殺されそうと勘違いする。
風呂場がこういう作りでなかったら、不気味さが勝って落ち着かなかったろう。でも実際は天井の合間から見る星空に、しばらく時間を忘れた。
「わあっ、露天風呂!」
えっ。
どの方向だったか、竹垣の向こうからポニー先輩の声が聞こえた。思わず叫びそうになった口を、手で押さえ込んだ。
湯を掬い、身体を流す音が生々しい。どうやら湯へ浸かる前に、石けんを使っているらしい。
それが終わると、おそらくシャンプー。水を含んだ髪の毛の、ちゃぷちゃぷいうのが辛抱たまらない。
ざあっと洗い流す音がして、同じような工程がもう一度繰り返された。そしてようやく、たっぷりの湯に分け入る波音が聞こえた。
「ふう。うぅぅぅん」
伸びでもしているようだ。竹垣のすぐ向こうに、先輩の声が聞こえる。ちょうどオレがもたれるのと同じ側。
どうしよう。オレが動けば、先輩にも波音が聞こえるに違いない。しかも今、この施設に男は一人だけ。
先輩の入浴の音に聞き耳立てていたなんて、そんな誤解をされては困る。
少し考えて、解決策を思いついた。逆転の発想というやつだ、オレは天才かもしれない。
「あれ、もしかして先輩ですか?」
「うん。見嶋くんも入ってたの」
「そうなんです。気持ちよくて、居眠りしかけてました」
「お風呂で寝たら危ないよ!」
成功だ。うっかり眠っていたと、しかもこちらから声をかける。やましい気持ちがあれば、まさかそんなことはしないはず。
先輩の声は、真剣にオレの心配をしてくれている。
「大丈夫です。生きてます」
「うん。気をつけてね」
しばらく、互いに喋らなかった。先輩はなにを考え、どうしているだろう。もし夜空を見上げているなら、満喫させてあげたい。
「ねえ、見嶋くん」
「は、はい?」
「あれ、また寝てた?」
「いえ全然。空を見てました」
自然のただ中。時計もなしで、時間の感覚が薄い。二、三分だったかもしれないし、十分くらい経ったかも。
とにかく先輩が、ほんのり温まった声でオレを呼んだ。
「そっか、落ち着くよね」
「ええ」
「落ち着いて、顔も見えないしさ。聞いてもいい?」
「先輩ならなんでもどうぞ」
縁の岩に背中を預け、だらんと全身を弛緩させる。頭を支えるのにちょうどいい窪みがあって、どこを力ませることなく星が眼に飛び込む。
きっと先輩も、同じ格好をしている。
「明椿さんを呼んだこと、嫌だった?」
ああ。
なにもかもお見通しか。そりゃあ七瀬先生からでも、キツネ女子からも聞ける。わざわざでなく、世間話をしていれば。
少し驚き、慌てることじゃないと自分に言い聞かせる。それだけの時間、先輩を待たせた。
「……いえ。びっくりしましたけど、別に」
「そうだよね。余計なお世話と思ったんだけど、なんていうか。明椿さんは、きみを心配してたよ」
「ええ?」
敵しかいない一年A組に、オレの心配をする奴が?
たしかにキツネ女子から、面と向かって言われた悪口はないけれど。
「もし私の言葉を、ちょっと信じてやろうかなと思ったらでいいよ。話してみてあげて。それで気に食わなかったら、私が謝る」
「先輩にそんなこと」
あなたの口から、それは卑怯だ。なんて理屈はオレの下心ありきで、先輩には分からない。
きっといつもの困り眉をますます困らせて、温泉に濡れたようなこの声を出している。
岩肌へ染みるようにゆっくりと、胸の奥まで伝わるような温もり。
「どうしようもないことって、あるよ。でも繋がってる糸を自分から切るのはもったいないよ。結果的に切るとしても、どこへどう繋がってるか見てからにしようよ」
すぐに返事ができなかった。
否定する気持ちはない。間違ってなんかいないし、ポニー先輩がオレのために紡いだ言葉だ。
だからこそ、無責任に答えられない。
黙ったままは心苦しかったが、先輩も喋らなかった。オレが答えを出すまで待ってくれる。それがまた嬉しかった。
時間を存分に使い、考える。するといつしか風が強まった。と言っても枝をしならせるくらいだが、悲鳴の鳴き声は紛れて聞こえない。
「オレってバカなんで、大事な判断で間違えてばかりなんですよ。でもせっかく教えてもらったんで。先輩、ありがとうございます」
言われた通りにします、と言うのは恥ずかしかった。
だが伝わったはずだ。「お先にあがりますね」と続けた返事は、ちょっと弾んで聞こえたから。
「うん。明日から楽しみだね」
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