第32話:暗中模索
「こんばんは、見嶋くん。これ、いただきます」
運転席の後ろ。オレの座るシートより、もっとゆったり広い後席に浅くかけた女子が頭を下げる。
行き過ぎるまばらな街灯に、闇の中の銀縁メガネが浮き上がった。
「……いえ、どうも」
聞こえるか怪しい小さな声で、しかもぼそぼそと。顔を見るというミッションを完遂した今、直ちに自分の顔を正面へ戻す。
見渡す限り信号も見えない窓の外を見据え、細く強く吹くことでため息をごまかした。
なんでキツネ女子が居るんだよ。
学園一のモテ声を発する痩せた顎。せっかくの革張り背もたれを無意味にする、しゃっきり伸びた背すじ。
どこからどう見ても一年A組のクラスメイト、明椿倫子その人だ。
友だちを呼んだって言わなかったか?
この旅の最低人数を集めることが、オレにはできなかった。だから任せてと言ったポニー先輩に頼んだ。
しかし、よりによって。そもそも学年も違うのに。
いやそんな意地悪を、あの優しい先輩がするわけない。
否定したい気持ちが、あり得ない妄想を膨らませていく。
そういえばポニー先輩の顔を見なかったし、こんばんはとも言っていない。挨拶するために振り返れば悪趣味な幻が消え、まだ知らぬ現実に戻っているんじゃ?
ヤケクソの期待に賭け、もう一度腰を捻る。今度はしっかり、オレの真後ろに座るポニー先輩をも見えるように。
「あ、どうも先輩……」
柔らかい革張りシートに埋まる先輩。暗い車内では表情まで見えなかったけど、ぼんやりした輪郭だけでも気力ゲージが振り切った。
しかしやはり、隣へ座るのはキツネ女子。せんべいの小袋を先輩へ差し出す姿に、気力ゲージは危険域まで低下した。
「どうしたの? なんだか元気ない」
「いえ全然。そんなことは」
見せかけでも、元気よく答えたかった。だが一年A組の生徒が居ては無理だ。
なんで喋るの? ウザい。キモい。
まだ言われてもいない悪口が、オレの声と身体を縛り付ける。
「ほら先生。見嶋くん、戸惑ってるじゃないですか」
オレがいつもと違うのを、ポニー先輩は引率者のせいと踏んだらしい。せんべいを噛む音に、非難の声が挟まる。
「んん? 出発を半日早めただけで、なにを大げさな」
「大げさじゃないです。私たちだって凄く慌てたんですよ」
どうやらオレだけが対象のサプライズではなかったようだ。四人中の三人が害を被ってしまえば、それは自分勝手と呼ばれる行為。
「そうか。しかし今から向かえば、日の変わらないうちに宿舎へ到着する。すると明日のスケジュールに余裕が生まれると考えた」
おや。勝手には違いないが、根拠は真っ当だった。
隣の県の宿泊場所まで、三時間以上もかかると聞いた。それを朝の出発では、明日の半分を費やすことになる。
だが今日のうちに移動を済ませば、たしかにかなりの余裕を持てるだろう。
五月三日からのスケジュールなので、動き始めるのも五月三日。オレにはそうとしか考えつかなかった。
「もう、そんなこと言って。先生が早く行きたかっただけですよね?」
ミニバンは峠越えの国道をひた走る。ほとんど揺れを意識させない運転手の目が、夜道を油断なく睨みつけた。
けれどもポニー先輩の呆れを含んだ声に、ちらとルームミラーを覗いた。ニヤと不敵に笑いつつ。
「否定はしない」
おい。オレの感心を返せ。
「悪かったね、見嶋くん。七瀬先生、楽しいことに我慢が利かないの」
後頭部のヘッドレストを誰かがつかんだ。後ろへ荷重のかかった感触があって、ポニー先輩の声が耳に近づく。
「ふやぁ、仕方ないれすね」
「そう。仕方ない先生なの」
顔が見えなくとも、先輩の困り眉はいつでも脳裏に浮かぶ。きっと今も同じはずだが、声にふわっと軽やかな感情が混ざった。
腑抜けたオレの返事に対して、ではないと思う。いまだ理由を知らない七瀬先生への信頼感が、先輩を笑わせたんだろう。
まあたしかに、まだ重ねたいセリフも思いつかなかったが。
「ねえ。明椿さんて、明椿道場の人だよね。剣道、やってるの?」
午後十時も近くなって、車は高速道路に入った。オレはうかつに後ろを向けず、運転手が望むお菓子を口へ運ぶ業務に従事していた。
後席の二人は好きな本の話なんかをしていたようだが、ふいにプライベートへと題目が変わる。
「いえ私はまったく。ただ、礼儀作法は教わりました。でないと関係者の方々へ、ご挨拶もできないので」
「そっか、古いおうちなんでしょ? お付き合いが難しそう」
「そうですね、両親の気配りは到底真似できません。私は教わった通りを繰り返しているだけですが」
なるほど大変そうだ。高校のうちから大人に交じり、礼儀がどうこうって。考えただけでも肩がこる。
とは、ともかく。やっぱりこの二人、お互いを大して知らない間柄。
それでどうして先輩は、キツネ女子を呼ぶことにしたんだろう。
考えているだけでは答えが見つからない。でも「どうして呼んだんですか」とわざわざ聞けるほどの無神経にはなれなかった。
おかげでさらに二時間。専属の給仕係を務め続けた。
***
高速道路を降りると、また周囲は山中だった。
後ろの二人はいつの間にか眠っている。サービスエリアごと、名産の食い尽くしツアーで疲れたんだろう。
おかげで、話しかけられませんようにと祈る手間が省けた。
「もうすぐだ」
せんべい、ボーロ、大福、五平餅、フランクフルト――などなど。久しぶりに食べ物の名前以外を聞いた。
「そう言われても真っ暗ですよ。こんな山の中にホテルとかあるんです? あ、温泉旅館とかですか」
聞く相手が一人なら、遠慮なく声を出せる。言った通り、周囲はどこを向いても木々の影しか見えない。
「そういいものでないが、あながち外れてもない」
「気を持たせますね」
間もなく零時。闇を切り裂くヘッドライトと、運転席のパネルからの僅かな光。
目当ての地に近づいて、さぞ楽しみだろう。半分以上も笑って返したのに、七瀬先生は違った。
いつものちょっと機嫌の悪そうな顔より、二割増しで視線がきつい。
「利用しておいて、と言われそうだがな。私の口から細かく話したい施設でない」
これから泊まる場所を説明させるな。拒絶に類する言葉を聞いたのは、初対面以来だ。
急に喉がいがらっぽく感じて、でも咳ばらいをしていいのか迷う。
「すみません」
強引に発した声は、やはりガラガラと雑音が混じった。
「お前が謝ることなど」
厳しい視線のまま、口もとだけが笑みの形に歪む。同時に先生は速度を落とし、ハンドルを大きく回した。
道路の外へ向いたライトに、真っ白な建物が浮かび上がる。
「門を開けてきてくれ」
「了解です」
南京錠の物と分かる小さな鍵を、先生は投げて寄越した。もちろんそれくらい、嫌がる理由もない。
敷地の入り口は学校の門と同じように、横へスライドさせて開けるタイプだ。端の鉄柱に錠が見えて駆け寄る。
手元が見やすいよう、先生は少し車を動かしてくれた。
その光に、脇の壁へ貼られたプレートが姿を現す。読んでみると、この施設の名前が彫られていた。
「えっ?」
一旦は読み流し、錠に視線を戻した。だが気になって、もう一度まじまじ。
黒地に銀の浮き彫りで、こう記されていた。学校法人、七瀬学園と。ここはその研修施設であると。
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