第27話:地道に何度でも

 ずっと、考え続けた。

 センターラインのない道路の先。黒い平面の只中に、ぽっかり浮かぶばあちゃんの家。目に映ったことを、どうやって帰った? と驚いた。

 まっすぐ前を向いて歩けなかった。

 せいぜい三、四歩先に視線を落とし、背中へのしかかる重さに、数えきれないため息を吐いた。


「ただいま」


 玄関の戸がガシャガシャと、ガラスの音を立てる。そのせいでたぶん、オレの声は奥に届いていない。

 でもオレが靴を脱ぐころには、「おかえり」の声が聞こえる。


 部屋を二つ分の廊下の先。扉が開いて、明かりが目を刺す。浮かんだ小柄なシルエットが電気のスイッチを探し、弱々しいながら暖かい光を落としてくれる。

 いつも感じるすきま風は、凪いだように動かなかった。


「ユキちゃん、おかえり。クラブ活動、大変だねえ。ご飯すぐに食べられるけど、先にお風呂に入る?」

「ええと、うん。お風呂かな」


 台所へ向かうオレを、ばあちゃんは見送る。揃えたつもりなのに、脱いだ靴を揃え直してくれて、廊下の電気を消して戻ってくる。

 奥の部屋へカバンを置き、着替えを用意し、脱衣所へ入るまで。なにか言いたげにしながら、ばあちゃんはなにも言わなかった。


 古い家だけど、風呂はきれいだ。壁のレバーで点火と湯沸かしを切り替える、外に風呂釜があるタイプだけど、使い方は分かる。

 熱めの湯に浸かり、まとわりつくモヤモヤが少し流れた気がした。

 もう少しで思いつきそう、というのも失せたけど。


 風呂に入る。ご飯を食べる。どちらもやることが明確だけど、オレにとっては中身が違う。

 湯船に水を張り、風呂釜の種火を点けて湯を沸かし、一時間くらいで加減をみれば風呂に入れる。


 ご飯は、どうすればいいだろう。唐揚げが食べたいってメニューを決めたら、お店に鶏肉を買いに行く。

 だけどそれから? 買う物はそれだけでいいのか、味付けや調理はどうするのか。完成した姿は見えるのに、途中が飛ぶ。


 文芸部の存続は、ご飯作りと同じだ。どこから手を付ければいいか、油が燃え上がらないか。不安ばかりで、なにを考えるか考えられない。

 じゃあ、やらなくていいや。では済まないのまで同じだ。


 寝間着代わりに中学のジャージを着て、居間の座卓へ座る。

 真ん中に大皿が待ち構えていて、キャベツの千切りと唐揚げが山盛りだ。ばあちゃんは二つくらいしか食べないのに。

 真っ白なご飯も山盛り。食欲はないけど、残す選択肢はなかった。


「ご飯、食べられるみたいで良かった」

「ん?」


 唐揚げの四つめを取ったところで、ばあちゃんの口もとが緩む。

 なんだかんだ、ふた口も食べれば止まらなくなっていた。ばあちゃんのご飯はうまい。


「慣れない学校で大変ねと思ったの」

「ああ、うん。部活でね、どうしてもやらなきゃいけないことがあって」

「まあ、そう」


 ようやく一つめを食べ終え、お茶を飲む。茶碗を持ち上げたところで、ばあちゃんの眼がオレを映して止まる。

 いつもの困り顔とまた違うモヤモヤが見えるのは、たぶんオレの落としたものだ。


「……ばあちゃんはさ、どうする? やったことないのに、失敗できないって時」

「うーん、それは難しいねえ」


 答えをもらえるとは思っていなかった。一応は悩んでいるけど、大したことじゃないよって。そう示すつもりで、へらへら笑う。

 ばあちゃんは表情を変えずに呟き、ご飯を口に入れた。十何粒か、いつもの量を。


「誰かに助けてもらうかしらね」


 しっかり噛んで、飲み込んで。出てきた答えは、期待通りだった。どうやって助けてもらうか悩んでいるのに、ヒントにならない。

 当然、ばあちゃんのせいじゃないけど。


「だよね。でも、誰でもいいわけじゃなくてさ」

「そうなのねえ」

「うん、そうなの」


 これで一応は打ち明けた。

 ばあちゃんを頼りにしてないわけじゃない。これはオレがぼっちなせいだから、余計な心配をかけなくていい。


「私はねえ、野良仕事をしたことがなくて」

「え?」

「嫁いでから、分からないことだらけで。でもおじいちゃんが、なんでも教えてくれてね。『こんなことも知らんか、しょうがねえなあ』って、笑い飛ばしてくれたの」


 急になんの話かと思えば、ばあちゃんも覚えがあるらしい。じいちゃんが笑い飛ばすっていうのは、イメージになかったけれど。


「ほら、あぜに草が伸びるでしょ。私はねえ、目についたらすぐに抜いてたの」

「ダメなの? 雑草は根っこから抜くもんでしょ。育たないうちにやったほうが楽な気がする」


 うんうん。と頷き、ばあちゃんは二つめの唐揚げを皿に取った。

 箸と手で、小さなひと口の大きさに千切っていく。直にかじれば手間もないものを、丹念な手つきで。


「根から抜くとね、畦に良くないんだって。それに積んでおけば堆肥にできるでしょ。だから梅雨のころと、秋に種ができる前、しっかり伸びた時に刈るの」


 鬱陶しくなったらとかいう程度で、雑草なんて適当に刈るものと思っていた。言われてみれば納得で、感心の「へえ」が自然に漏れる。

 それを待っていたように、ばあちゃんは唐揚げを食べ始めた。小さな一つずつを、ゆっくりと噛む。


「ばあちゃん、勉強熱心だもんね。すぐに覚えたでしょ」

「私が? おばあちゃんはねえ、どうも頭が良くなくて。不真面目だし、おじいちゃんに何度も同じことを言わせたよ」

「ええ?」


 ばあちゃんと会う機会は、それほど多くなかった。だけどオレの質問には、必ず答えてくれた印象がある。

 それにいまだに勉強をしている証拠もあった。


「だってこの前、納屋の本を読みたいって。難しそうなのばっかりだったよ」


 納屋の二階に置かれた、じいちゃん作の本棚。扉付きのがっしりした中に、昔の名作集とか肥料がどうこうっていう本。植物図鑑とかが収められていた。

 取ってきてと言われたのも、そういう数冊だ。それなのに、ばあちゃんは首を横に振る。


「私はどれも読んでないの」

「え。読むって言ったよね」

「そうね。本の題名とか、挿し絵の説明とか。そういうのを読むとね、おじいちゃんが話してくれたのを思い出すの」


 地道にもぐもぐ、もぐもぐ。まだ二つめの欠片を飲み込み、ばあちゃんの目は水屋へ向いた。オレの取ってきた何冊かが、そこに重ねられている。


「ほんと、覚えが悪いのに。何度でもね」


 ほんの数秒で、ばあちゃんはこちらを向く。みそ汁を飲んで、ご飯を口に入れて。あせるとか慌てるなんて言葉、この世に存在しないみたいにゆっくりと。


「失敗しちゃダメなんだけどさ、時間は少しあるんだよ。それまで何度も、諦めずにやったらできるかな」

「きっとできるわ。もしできなくても、そんなに頑張ったユキちゃんを責める人なんか居ないと思う」


 それはどうかなあ。責めるというか、バカにする奴は居るだろう。

 でも七瀬先生は責めない。責められたとして、やらなきゃ文芸部がなくなるんだ。分かっていたことだけど、胸に強く明確になった。


「だね、やってみるよ。分からないことは、誰かに聞けばいいんだ」


 具体的なことは、まだ見えない。しかしぼんやりと、おぼろげな何かが見え始めた。

 オレは山盛りご飯のお代わりを、ばあちゃんに頼んだ。

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