第23話:不器用な二人
日曜日の午後。電話機を前に、予行演習を行う。
「見嶋です。本棚の部品が揃ったので、運ぶのを手伝ってもらえませんか」
ばあちゃんの家の玄関は、昼でも薄暗い。ガラス入りの格子戸も、表の長い
「車を出していただけませんか、か?」
ぶつぶつと自分にしか聞こえない声量で、伝える言葉を選別した。
どうも強張ってしまうのは、たぶんすきま風とは関係ない。ここ数日、寒気に震えることはなくなった。
この週末、本棚を作るのは七瀬先生も知っている。どこまでできるか分からなかったので、運ぶのを頼まなかったけど。
しかしこの緊張は、これとも関係ない。
二十三、か二十四歳。女。
なんだよな……月曜に学校で頼むべきか? でもスマホの番号もらったし、遠慮するなって言ってたし。
既に十六年近くもなるオレの人生で、女性めがけて電話をしたことがあったろうか。
いや、ない。強いて言うならハンバーガーの電話注文が、必ず女性店員さんだったくらい。
電話越しに聞く女の人の声が、どうも苦手だ。直に話すより甘く聞こえ、ひどく近い錯覚がして。
恥ずかしいやらくすぐったいやら。身悶えするのを見た母さんの、生温かい目が苦い思い出になっている。
「まあいいか」
なにも解決しなかったが、プッシュボタンを押した。
電話なんて、ほんの数分。それさえ乗り切れば、本棚作りの続きができる。早く完成させてみたかったし、評価も聞きたかった。
「私だ」
コール音は一回、聞こえた応答は極めて短く響く。お祭りの太鼓にはまだ早いがなあと思う。
そうだった。見た目は子ども、頭脳はおっさん。たった一つの趣味は昼寝の人で、魅惑のダークボイスな先生だった。
「み、見嶋です」
「ああ。なんだ、棚ができたのか? 運ぶなら行ってやるぞ」
緊張して損した。たぶんオレの中で、キツネ女子あたりに声優が差し代わっていた。これは音響監督の責任問題だ。
片膝つきそうだったが、どうにか堪える。すぐ来てくれると、話の早かったおかげで。
「そうなんです、お願いできますか」
「分かった。二十分以内に着くはずだ」
では後で。とかなく、ブツッと切れた。まああの人らしくて、意外とも思わない。
しかし二十分か。突然に言って出かける準備はないのか、と考えたらえらく早い。
などと感心する暇はなかった。オレはまだ、薄汚いスウェット姿だ。
日曜日に教師と出かける時、どんな格好をすればいい? 時間がなさすぎて、数少ない服からも選べない。
いや待て。お出かけったって、行き先は学校だ。相手はあの女の子だし。十分をムダにしたころ、不意に気づいた。
ばあちゃんがアイロンしてくれた制服を着込むと、古いチャイムが甲高く鳴いた。
「のどかで、いいところだな」
玄関を開けると、パンツスーツの女の子はいなかった。居たのは黒いデニムを履いた中学生男子。
いや七瀬先生だと分かっているが、適当な英単語入りのトレーナーとか、いかにも男の子っぽい。
「胸いっぱいに牛糞の臭いとか、オーケストラばりの蛙の合唱とか。色々体験できますよ」
「それはいいな。そういう自然体験が私には乏しい」
それでも薄い化粧だけは、いつも通り。遠くに視線を投げつつ、玄関先から垣根もなにもない庭へ入っていった。
土原学園が市街地の端に当たるけれど、ばあちゃんの家はさらに外側へある。人工物と自然物の対比が真逆で、眺めたい気持ちは分かる。
「さて、運ぶか」
なんなら近場を案内でも。そう考えていると、デニムの女の子は板を手にして振り返った。
色も形もできあがった、本棚の部品を。
車はまた、白いボックスワゴン。車内にはクッションの一つもなく、愛想の欠片も感じなかった。
家族のを借りたとかだろう。実家住まいなら、きっと普通だ。
部品を残らず載せ、ボックスワゴンは走り始めた。オートマ車で、とても穏やかな運転だった。
加速、減速。交差点やカーブで、自分の体重を感じることがほとんどない。なんとなく、アクセルはオンとオフの両極端みたいなのを想像していたのに。
おそらく偉い人を乗せるプロなら、こんな運転をするだろう。
「慣れてるんですね、運転」
「そうでもない、通勤でしか車に乗らん。だが自動車学校で教わった通り、勝手な応用をしなければこうなる」
勝手な応用とはどんなものか分からない。でもたしかに運転する姿が、背すじを伸ばしてピシッとしている。
左右の確認やミラーを見るのも、大げさなくらいはっきりくっきり。
意外に危なげなく、車はオレの通学路を進んだ。
だから十分ほどで、無理やり置いたブロッコリーが現れる。タク兄やベーブレ仲間と遊んだ、神社のある森が。
目立つ建物はないけど、ほかに緑もない。ばあちゃんの家に比べれば、圧倒的に街だ。
田村卓哉という人のことを聞きたい。中学からのクラスメイト、田村良顕の従兄のことを。
詳しい住所は知らないが、ここから遠くない付近に住んでいるはず。
大学の同期と言った先生に、ずっと聞いてみたかった。でも嫌っているみたいだから、どうにも口に出せずにきた。
「おいこら」
「え、ええっ?」
突然、叱られた。ずっと前を向き、運転に集中していたはずの人に。
「驚くな。それだけ見つめられて、気づかんとでも思うのか。見るのはタダだが、気になってかなわん」
「あ、その、すみません」
見つめていたんだろう。先生がずっと前を向き、集中していたとオレは知っている。
「すまなくはない。言いたいことがあるなら言え」
「ええと……いえ、なんでも」
ブロッコリーが、振り返っても見えなくなった。だからって質問には関係ないけれど、もごもごと言葉を濁す。
田村家を見つけられれば言えるかも。なんて、明らかな不能条件を探して目を泳がせた。
「お前のいいようにすればいいが、大サービスで一つ教えてやる。言いたいこと、やりたいことは、はっきり口に出せ。伝えるべきに伝えるべきが伝わらんのは、くだらん割りにダメージが大きい。お互いにな」
「はあ」
言い回しが
反すうするに、大切な相手ほど言いそびれるのは良くないってことだろうか。
「図々しいと離れる者もあるだろうが、それは端から縁のない相手だ」
先生の運転には迷いがなかった。十時十分の位置でハンドルを握り、必要なレバー操作をしたらすぐに戻ってくる。
これがうまいのか下手なのか分からないが、機械仕掛けみたいだ。話す内容も。少なくとも間違ってはいないんだろうけど。
「説得力ありますね」
「受け売りだ」
それなら聞いてみようか。大人だからとか、女だからとか、オレにはなれないものを理由にされなくて良かった。
「田村の従兄のことです。卓哉という人、たぶんこの辺りに住んでると思って」
「ああ、アレか」
運転中の女の子は、鼻から軽く息を噴いた。なあんだ、という風に。
もっと嫌な顔をされるかと警戒したのに、まったくそんな雰囲気はない。
「その名を出すと、私が嫌がると思ったのか? 気を遣わせて悪いが問題ない。たしかに私は好かんが、世間一般には善良な男だ」
嫌いでなく、苦手。オレに言わせれば、女の子の全員になる。いやそれは、好きだけど苦手なのか。
「この辺りに住んでいるのも、その通りだ。なるようになる、が口癖のような奴で、言うほどに立ち回りがうまい。不器用な私と、正反対だ」
「先生が不器用とは思いませんけど、それで苦手なんですか?」
奥歯に挟まった食べカスを舌で探るみたいに、七瀬先生は表情を歪める。苦笑のような、困惑のような。
そのまま「いや」と、首を横に振る。
「私とバディーのように周りが言ってな。性格も好かんが、その扱いに迷惑をした」
「それも勝手な期待ですか」
距離が遠ければ微妙な相手で済むものを、二人一組のように言われるのが鬱陶しい。
という経験はないが、想像はついた。要は納得のいかないレッテルを貼られたってことだ。
「さて、どうかな」
察したつもりで、困りましたねという気持ちを篭めて笑った。でも先生は表情を引き締めた。
ちょっと機嫌の悪そうな、それ以上は感情を読ませない顔。
問題ないって言ってたけど、やっぱりなにかあるらしいや。
もう少し聞きたかったけど、やめておいた。そうこうするうち、土原学園も目の前だ。
それから本棚の部品は、無事に社会科資料室へ運び込めた。車に電動ドライバーまで用意してあって、組み立てもすぐに終わった。
「前衛芸術には詳しくないんだが」
というのが、文芸部顧問の評価だ。
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