第19話:信頼と矜持

「食い終わったら、ちょっと来い」

「三割は先生が」

「やかましい」


 弁当箱の蓋もしないうちに、大ぐ――食いしんぼうな女の子は言った。くいくいっと動かした人さし指で呼ばれるなんて、現実に見たのは初めてだ。


「で、どこへ行くんです?」

「行けば分かる」


 社会科資料室を出た途端、前を進む背すじが伸びる。踵を鳴らし、颯爽という言葉が似合う。

 さっきまでの弁当を狙う姿を思うと、キツネ女子より持久力に劣るみたいだけど。


「あっ、七瀬先生。添削してもらったところなんですが――」


 一階まで下りると、三年生に呼び止められた。宿題だか小テストだかで、なにやら質問があるようだ。

 関係のないオレが聞くのも悪いので、四歩離れた。


 長引くかと思ったが、互いに二回の言葉を交して終わる。ノートもプリントもなしに、よく通じるもんだ。

 質問をした三年生と別れ、南校舎への渡り廊下に出る。とすぐ、今度は二年生に声をかけられた。


「ナナちゃん、今いい?」

「用件の途中だが、少しならな」

「ありがと! あのね数学なんだけど――」


 また担当外の質問らしい。まあたしかに数学はどの先生も、分からない生徒に分かりやすい説明をしてくれない。

 オレは背伸びをして入学したせいもあるだろうけど。


「さすがナナちゃん」

「駆け足で悪いな」

「ううん、分かりやすかった!」


 ばったり出会っただけに、やはりノートなんかは持っていなかった。二年の先輩は手を振って去る。


「人気、ありますよね」

「歳が近いからな。友だち感覚なんだろうさ」

「そうですか? 三年の人は、丁寧に話してましたけど」


 小さく上げた手に「フッ」と息を吐いたのは照れ隠しか、また違うなにかか。ニヒルな笑みから読み取れない。

 見たままを言うなら、銃口から上がる煙を吹き消したみたいだった。


「昨年度の私は、一年の担当しか持っていなかった。おそらくそのせいだ」

「そっか。まだ二年目なんでしたね」


 なるほど食堂で見た時も、二年生ばかりに囲まれていた。

 しかし話せばそこはかとない貫禄のこの人に、ナナちゃん呼ばわりまでは理解に苦しむ。たぶんオレが男だから?


「ああ。今よりもっと、うぶで可愛らしかった」

「ええ……」


 思わず、多分に否定を含む声が漏れた。

 黙っていれば元気な中学生ぽくて、そういう意味で可愛いと言うなら同意する。それに事実がどうであれ、自意識は自由だ。

 が、今のはあまりに想定外だった。油断した。


「なんだ」

「いえ、なんでもございません」


 直立不動で、顔だけはあさってのほうを見る。なかったこと作戦に、また「フッ」と吐息が聞こえた。さっきよりもう少し、笑った成分が濃い。


「よし、来い」


 やり過ごせたようだ。顔を戻すと、小さな背中はもう何歩も歩いていた。

 渡り廊下から外れ、中庭へ。レンガ色のコンクリートタイルとは言え、屋外だ。上履きのままでいいのか?

 まあ条件は七瀬先生も同じ。少し小走りに追いかけた。


 校門から植え込みで陰になる部分は、先生たちの駐車スペース。軽自動車も高級車もさまざま駐めてある中、用件とは背の高いボックスワゴンタイプの車にあるらしい。


 ハッチバックを開けると、ブルーシートで包まれた荷物が。

 大きい。荷室の半分ほども占めている。まさかベッドかと思ったが、シート越しに触れてみると違う。


「これ、社会科資料室に運ぶんですか。どうやって行きましょう」

「手のほかにあるか?」

「いやまあ、そうですけど」


 どうもオレと二人で運ぶつもりだ。平面ならまだしも、社会科資料室は三階なんだが。


「いいか、重量物を運ぶのに無理は禁物だ。疲れたと思えばすぐに言え。それに持ち上げや降ろす時、狭い場所では合図を忘れるな」

「は、はあ」


 的確な指示があり「それ」と持ち上げる。体格を活かし、荷物を押し出すのが女の子。車外へ引っ張り出すのがオレ。

 ブルーシートが滑るおかげで、この作業はスムーズだった。問題はここから。いよいよあの小さな両手に、重量の半分がかかる。


「せえのっ」


 オレからすると、大した重さじゃない。いや重いは重いが、しっかりした骨格で持ちやすかった。

 しかし華奢な女の子には、きっとつらい。


 あ、でもそうか。車に載っているんだから、一度は運んだことになる。それならどんなものか、分かって言っているんだろう。

 信じて一歩。ゆっくりと二歩目を踏み出す。


「ぐぅ……んんうぅぅぅぅぅ」


 どこかでウシガエルの引き伸ばし作業をしている。低くくぐもった呻きが、とめどなく聞こえた。

 気のせいでなければ、抱えた荷物の向こうから。


「せ、先生。行けます?」

「い、いけ、行け――る」


 わけない。まだ車から、二メートルしか離れていないのに。


「ムダ口はいい。はや、早く……」


 私を見捨てて先に行け、と言われた気分だ。途切れ途切れに、蒸気の洩れるような息が危うい。


「先生、無理したら怪我しますよ。いったん降ろしましょう」

「わたっ、私は大丈夫だ」

「大丈夫じゃないですって」


 後ろから、ぐいぐい押される。なんだかんだ、それで北校舎までは進んだ。

 ただこれだけ騒いでいれば、なにごとかと誰もが振り返る。


「よし、きゅ、休憩!」


 手伝うと言ってくれた先輩たちにも、大丈夫と断っていた。極端な負けず嫌いなのか、誰に対しての勝ち負けか分からないが。

 ともあれ階段の下まで運び、ひと休み。先生はブルーシートに突っ伏し、先輩たちに扇いでもらっている。


「七瀬先生、交代しましょう。順番です」


 何度も手を出しかけた三年生の声に、ようやく頷きが返った。ぜえぜえ言うだけで、声はない。

 ちょっと休んで、先生は手伝ってくれる人を指名する。三年生ばかり、三人。


 オレともう一人が下を支え、あとの二人が先を進む。階段の幅より長い荷物が、少しずつ上っていった。

 結局は指名されなかった先輩たちも、あちこちから手を伸ばす。そうでないと、たぶん上げられなかった。


「ありがとうございました」

「おつかれさまー」


 ブルーシートを剥ぎ、社会科資料室の中まで運びこんだ。ひと息ついていると予鈴が鳴り、先輩たちは自分の教室へ戻っていく。

 オレは二つに折れる勢いで腰を曲げ、全員を見送った。すると何人かが肩を叩き、労ってくれた。


 疲労困憊の女の子は、設置した荷物へさっそく横たわったままだ。

 古びているけれど、立派な革のソファー。もうダンボール箱ベッドは要らないらしい。

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