第16話:自分の時間

 北校舎の三階に、バケツはトイレのものだけだった。少し抵抗はあるが、ほかに探すのも面倒くさい。

 ぞうきんは廊下のを勝手に借り、まずは大きなテーブルを拭く。掃除は上からが基本だけど、荷物を降ろす場所もないのは不便だ。


 最後に磨いたのは、いつだろう。湿気で練り固まった埃が、黒いビニールマットみたいに薄く張り付いている。

 ここでお菓子を食べるのは、どうなんだ。まあオレも弁当をどこで食べるか、昨日は困ったが。


 ゴミ箱は空だ。でもダンボールベッドのわきに移動していた。そのベッドも、おととい見たのと違う箱の気がする。

 見回すと壁ぎわに、覚えのある書き込み入りの箱があった。側面が破れ、捲れかけていた。


 なんでこんなところで寝てるんだ?

 毎日ではないにしても、あの人はスーツが汚れるのも構わず、ここを休憩場所と決めているらしい。

 しかもオレが見たのは、一時間目も始まる前。まさか家にも帰らず、寝泊まりに使っているのか。


 ただそれにしては、私物が残されていない。

 ぜんぜん予想がつかないけど、理由は教えないと既に言われた。昼休憩が終わるまで考えて、そのあとは忘れた。


 放課後。廊下側のクラスメイトより早く、さっさと一年A組を出た。横目にキツネ女子を見ながらだったが、当人はゆっくりと荷物をカバンに移していた。

 授業中はまっすぐ前を見続けているし、小休憩は本を読む。キツネじゃなく、女子と呼ぶべきかも。


 ともかく部活だ。職員室へ行くと、顧問の女の子はいない。どこから椅子を持ってくるか、聞きたかったんだが。

 しかし代わりにハゲ、ではなくて担任の津守先生が戻ってきた。唯一オレより早く教室を出たのに。


「先生、椅子ください」

「あー、なんだ?」

「部室に椅子がないんで、ほしいんです。余ってるの、ないですか」


 津守先生の席まで、歩く後ろを着いていきながら頼む。

 先生は持っていた荷物を机に置きつつ「部室?」と問い返す。


「文芸部に入ったんですよ。まず部室の掃除からしなきゃいけなくて、座るところも踏み台もなくて」

「入ったのか」


 あぐらをかいたような鼻から、熱い息が噴く。想像でなく、振り返った鼻息がオレにかかった。

 慌てて一歩さがる。口をへの字に結んだ先生は、うっすら残る側頭の生え際を掻いた。


「入りましたけど、どうかしました?」


 不機嫌という顔にも見えない。困ったか呆れたか、やれやれとセリフを宛てがえばしっくりくる。

 でも先生は「いや」と話を打ちきり、椅子の場所を教えてくれた。


「あー、うちの教室の隣だ。二つだったな、持ち出しの記録は俺が書いとくから、勝手に数を変えるなよ」

「うちの隣ですか」

「どうした」


 まだまだ教室に残っている奴もいるだろう。近寄るのは嫌だが、そこが保管場所なら仕方がない。先生を見倣って会話を終える。


「いえ、なんでもないです」


 鍵を借り、言われた通りに空き教室から椅子を運び出す。

 社会科資料室へ運ぶには、一年A組の前を行ったほうが近い。重ねた椅子を抱え、開け放たれた入り口から、中をちらり。

 やっぱり何人かの姿があった。しかし茶髪女子のグループや、田村はいない。ほっと小さく息を吐いた。


   ***


 洗剤を借りもしたのに、テーブルを磨くだけで午後六時近くなった。たぶん七時までは残っていいはずだが、疲れた。

 黒かったテーブルは、実は赤茶色だった。新事実を収穫として、帰るとしよう。


「あっ」


 カバンを持つと、ずっしり重かった。土原学園は置き勉を許していない。

 それはいいのだけど、重量で思い出す。この中に、残してはいけない重みがある。


 昨日と同じ所でいいか。

 埃の舞うこの部屋で、まだ濡れているテーブルを使う気にはなれない。ほんの少し夜の薫り始めた学園を出て、県道を歩いた。


 校門から五分もかからない。古い住宅地に入ってすぐ、小さな川が流れている。

 小さいと言っても、三メートルくらいの幅はあるか。道路から直に下る、両岸の斜面を入れても十メートルない。


 川辺が公園代わりらしく、散歩する人や楽器の練習をする人が見える。

 一面を雑草で翠に染めた土手。風化した石造りの橋。流れは透き通り、たゆたう水草があちこちに。

 何百年前にも、ここへ弁当を持ってくる人がいたかもな。


 先客の邪魔をしないよう、もう少し歩く。すると三十メートル近くも続く、焼き板の塀の前に出た。真ん中にはいかめしい、瓦の載った門も構えられた。

 塀越しに見えるのは、木造の古そうな建物だ。お寺か神社かなと思ったが、それにしては中から大勢の声が聞こえる。


 板を踏む音。耳をつんざく、気合いの掛け声。

 ああ、剣道の道場か。そんな目の前で弁当を食うのもどうかと思ったけれど、早く食べなければ真っ暗になってしまう。

 まあいいやと諦め、川辺に下りた。


 カバンから風呂敷包みを取り出す。紫と白がグラデーションになった、さらさらの生地が気持ちいい。

 ほどいた中には、金属の弁当箱。古めかしいが、どこにも凹みや傷がない。


 焼き鯖。玉子焼き。きゅうりの酢の物。それぞれひと口で頬張り、よく噛んで飲み込む。コンビニの弁当に入っているのより、見た目にもきれいでおいしい。

 しば漬けとごはんをまとめてかき込み、甘じょっぱい鶏つくねを合間に。

 やっぱり新品の水筒に入れてもらったほうじ茶が、思わず「ほうっ」と息を吐かせた。


 食休みに、しばらく寝転んでいたかった。しかしどんどん夜が近くなり、冷えてくる。

 カタカタと小気味いい音をさせながら、元通りに風呂敷を。

 元通りに風呂敷――。

 元通りに、できないので適当に結ぶ。


 さあ帰ろう。斜面を見上げると、車が一台走り抜けた。弁当を食うのに十分くらいはいたと思うけど、ほかに三、四台しか通らなかった。

 でも人通りはそれなりだ。みんな学校や仕事から、あるいは商店街から帰ってくる。


 なんだか今すぐに、ばあちゃんの顔が見たくなった。階段なんてない斜面を転ばないよう、ゆっくり急いだ。

 と、目の前を自転車が行き過ぎた。別に危なくもなんともなかったが、なんとなく目で追う。

 白いワンピースの女の人だったなと見極めたからとか、そういう理由ではなく。


「あれ……」


 女の人というか、女子。しかも知っている顔だ。隣の席のキツネ女子。

 この辺りに住んでいるのかと思った途端、自転車は止まる。すぐ先の門の前で。


 剣道を習ってるのか? って、そういう格好には見えない。カゴの荷物も買い物のレジ袋。

 キツネ女子は自転車を抱え、門の奥へ消えた。そこまでほんの二十歩くらいを行き、覗いてみる。


 門の先、正面には太い松が横に広く枝を張っていた。低い竹垣が行く手を二つに分け、どこの日本庭園かなと思う。


「はー」


 金持ちっているんだな。勝手に漏れる声もそのまま、門を見上げる。そこに、極太の毛筆で書かれた看板があった。

 重ねた年月が、墨の部分以外も真っ黒に染めている。暗くなったのもあり、読み解くには少しの時間が必要だった。


 明椿道場。看板にはそう書かれていた。

 へえ、そうなんだ。オレの感想は、それ以上でもそれ以下でもない。強いて言えば、掃除が大変そうだなってくらいで。

 明椿倫子という名前のほか、あの女子のことをなにも知らない。だから意外とかなんとか、感想の基準にするものがなかった。


 待てよ。変に家を知ってるってなると、ストーカーとか言われる可能性もあるのか?

 なんて考えながら、淡々と家路についた。明椿道場から、バス待ちも含めて四十分。


「ユキちゃんお帰り。クラブ活動、遅くなって大変ねえ。晩ごはん、すぐ食べられるよ」


 玄関で迎えてくれるばあちゃんは、ぎこちなくも口角を上げる。

 差し出された両手に軽くなった風呂敷包みを渡すと、ちょっと振ってみて満足そうに頷いた。


「大丈夫だよ。お腹減った、おかずなに?」


 与えてもらった自分の部屋にカバンを置く間もなく、今日三度目の食事に向かう。

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