第13話:オレとの関係

 一年A組に戻る足が、ほんの少し軽くなった。あの空間へ戻れば、きっと一瞬で吹き飛ぶけど。

 でもまた図書室に行けば、ポニー先輩はいる。当人の事情を思えば申しわけないが、必ず会える。


 長い髪から、シャンプーの匂いがした。隙あらばからかってくるのが、お姉さんぽかった。

 なのに下がりっぱなしの眉を、笑った形にしてあげたい。あのポニーテールを想えば、ひとりでいるのは苦痛でなくなった。


 授業で当てられたオレの答えが正解でも間違いでも、聞こえるか聞こえないかの笑い声。

 休憩時間に寝たふりをしていると、大勢の視線を感じる。でも目を開ければ、誰も見ていない。


 そんなことが、オレの神経を薄く剥いていく。やめろと言っても、なにを? と誰もがとぼけるだろう。

 そんな時間は憂鬱で、イライラして、どうしていいか。


 でも放課後までの時間を数えて堪えれば、先輩に会える。明日も昼休憩には会いに行ける。

 そう思うと、窒息しそうな喉にもいくらかの風が抜けた。


 六時間目のあとショートホームルームも終わり、準備万端のカバンを引っつかむ。

 一秒でも早く、この教室を出たい。一秒でも早く、ポニー先輩の顔を見たい。駆け出しそうな脚を宥め、普通の速度で歩く。


 普通ってどのくらいだ。速すぎれば、逃げたと笑われそう。遅すぎれば、邪魔くさいとけなされそう。

 普通。普通。

 呪文のように唱えながら、次にどちらの足を出すか迷いながら、どうにか廊下へ。


 だからと急に走ったりしない。まずは一階へ、職員室を覗く。やはりスーツの女の子はいなかった。

 それから北校舎を三階まで。階段を一歩進むたび、人の気配が遠退いていく。


 クラブ活動が始まり、準備体操や掛け声が聞こえる。吹奏楽部の練習も。しかし図書室と社会科資料室のある三階には、誰もいない。

 分厚い床や壁の向こう。遥か彼方、忘れかけた記憶の底から響くようで、違う世界の音に聞こえた。


「あれ……」


 また間違えました、二度あることは三度ある。みたいなことを言おうとしたのに、図書室の中は想像と二つ違っていた。

 一つは在室する人数が、ひとりでなかった。カウンター内には、三年の先輩が。入り口で見回すオレに、怪訝な目を向ける。


 もう一つは、ポニー先輩がいなかった。カウンターと書棚の間。等間隔で四つ並べられた広いテーブルに、先客の姿があった。

 窓ぎわの椅子に浅く掛け、文庫のページを片手で器用に捲る。ゆったり座れる大きな背もたれを持て余した、ダークグレーのパンツスーツ。


「七瀬先生。ここにいたんですか」

「お前か。どうした」


 代わりに。というかそもそもポニー先輩と再会したのは、この人を探していたからだった。

 傍まで行って声をかける。中学生くらいの女の子は、読んでいた本を閉じてテーブルに置いた。しおりを挟むこともなく。


「せっかくアドバイスしてもらったんですけど、ダメでした」

「そうか。だろうなとは思っていた」

「ええ。全然、話にもならなくて。オレがヘタクソなせいもありますけど」


 腕組みでオレを見上げる。愛想笑いさえなく、突っ立ったオレは叱られた気分だ。


「まあ気にするな。今の世の中、そんな話は珍しくもない。どうせ今日あたり、文句を言われることもなくなっただろ」

「よく分かりますね。クラス全員から、無視をくらってます」

「歳が違っても、高校生のやることなんて似たようなものだ。クラスの友人など居なくても、ほかで楽しめばいい」


 ちょっと機嫌悪そうに、眉が怒っている。しかしこの女の子は、いつもそうらしい。

 私がどうにかしてやるなんて気休めを言わないし、気にするなと言うにも微笑みひとつなかった。

 冷たい対応かもしれないが、オレには逆にありがたく感じる。


「殴る蹴るとか、物を盗まれるとかあれば言え。そういう証拠のあることなら、どの先生でも放ったらかしにしない」

「証拠がなかったら、するんですか」


 どうも引っかかる言いかただ。でも当人に含みはなかったようだ。問うオレに「ん?」と首をひねってみせる。


「いや、その……」


 オレの頭には、ポニー先輩の顔が浮かんでいた。自分のクラスに行けなくなった、とは嫌がらせのせいじゃないか。

 あえて伝えようとは思わなかったが、どうしてもカウンターに視線が向く。


「ああ、なるほど。なぜ私を探しにここへ来たかと思えば、そういうことか」

「そ、そういうことって」


 どういうことですか、という声は萎んだ。

 まだほんの少し話しただけだし、はかなげな先輩のことが心配なだけだし。それ以上はなにも、という自分への言いわけが、それ以上を望むなによりの証拠だ。


「分かる分かる、弥富は可愛らしいからな。しかし残念ながら、あいつが図書室を開けるのは昼だけだ」


 ニヤリ。男前に、口角が少し持ち上がる。否定も肯定もできないオレは、たぶん顔を真っ赤にして立ち尽くした。


「話が合うなら、仲良くすればいい。私はあいつの親でもないし、よほどおかしなことをしなけりゃ口出しする理由がない」

「ですからそういうのじゃ……」

「どういうのでもいい。弥富に限らず、好きにしろと言っている」


 わずかな笑みは、もうない。突き放すような言葉が、ますます冷たく感じた。

 けれどもなんとなく、実際はそうでないと思える。


「はあ、分かりました」


 引き下がるオレに、平たく「うん」とだけ。言って女の子は、壁の時計を眺めた。

 つられて見ると、もうすぐ四時半だ。


「用が済んだら帰れ。私も職員室に戻って、帰り支度をする」

「はい――あ、いや。もう一つ」

「なんだ」


 椅子から浮いた腰が元に戻る。怒った眉の角度も変わらず、またオレは見上げられた。


「その。文芸部に入れてもらおうかと」

「うん?」


 新入生が入部先を決めて申し込む。おかしなことなどないだろうに、じっと見つめられた。

 十数秒、今度は女の子の目がカウンターへ向く。だがそれはすぐ、またオレと視線と合う。


「弥富は私のスポークスマンに憧れている節があってな。それが理由なら忘れろ」

「いや、でも。部員がいないんでしょ?」


 ふうっ。太い息が短く吐き出された。「うーん」と唸る声に、濁点が付いて聞こえる。

 ブラウスの胸もとから突っ込まれた指が、鎖骨の辺りを掻く。オレが条例違反で捕まったらどうするんだ。慌てて目を逸らした。


「部員のいないことと、お前が入部するのと、なんの関係がある?」

「え、だって」


 ゼロのままでは、たぶん困るんだろう。だからポニー先輩は、七瀬先生が喜ぶと言った。

 頼みを叶えれば、きっと先輩も喜んでくれる。それはオレにも嬉しいことだ。昼休憩から、その妄想を何度繰り返したか。


 ほら、関係は大アリだ。だが先輩に勧められたのが理由なら忘れろ、とも言われた。それ以外となると、今は頭にない。


「ないだろ。潰れそうな部活を救うのがお前の趣味、とでも言うつもりか? 冗談でもつまらんし、本気ならくだらん」


 話は終わりだな? と、たしかめるように小さな顎が二度頷いた。オレは返事をできなくて、それが答えになった。

 踵の低い革靴を揃え、女の子は椅子を立つ。


「気をつけて帰れ」


 行ってしまう。手にした文庫本を煽ぎ、静かな足音を鳴らして。

 見えなくなるまでのわずかな時間、必死に考えた。関係がないって、本当かを。


 要するに、入部する理由があるのかってことだ。オレが文芸部に入ったら――文芸部って、なにをするんだ?

 本を読むのは知ってる。でも、それだけ?

 なにも知らない。分からないことだけが分かる。

 それなら答えは簡単じゃないか。オレの中の懐かしい誰かが教えてくれた。


「先生」

「なんだ?」


 追いかけて、呼ぶ。階段へ折り返そうとしたところで、小さな背中は立ち止まった。


「文芸部って、正直なんだかさっぱりで。でも七瀬先生の部活なら、面白いかもしれない。それは入部してみないと分からないでしょ」

「はあ? なんだそりゃ」


 きっかけは鈴乃さんと七瀬先生だ。だけど面白そうと思ったのはオレの感覚で、その通りかはオレ自身がやってみなくちゃ分からない。

 なんてことは伝わらないだろう。現に顧問の女の子は、難しい顔で首をひねる。


「理由になりませんか?」


 たっぷり一分以上も沈黙が続き、不安で待ちきれなくなった。

 すると中身がおっさんの女の子は、髪の分け目をぼりぼりと掻きむしる。


「よく分からんが、好きにしろ」

「はい、好きにします!」


 困ったような、笑ったような。なんとも言えない顔で、七瀬先生は頷く。どうやらオレは、一つ居場所を見つけたらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る