第12話:控えめな願い
ばあちゃんの作る朝ごはんは、米と味噌汁と漬け物。ほかに鮭や肉じゃが、きんぴらなんか。
飲み物は熱い日本茶だ。
登校三日目の朝。焼きすぎたトーストが座卓に載っていた。目玉焼きはきれいに丸く、果物と牛乳をミキサーにかけたジュースまで。
「あれ、ばあちゃん。珍しいね」
「うん。ユキちゃん、家だとパンって言ってたでしょ。そのほうが朝からたくさん食べられるかと思って」
今日も困った顔。でもどうにか口もとを上げ、笑顔を作ってくれる。
ばあちゃんの家に来て十日目。毎朝、出してもらっただけ全部食べた。
もっと食べろってことか?
オレを太らせたい理由は分からないが、ジュースはありがたかった。今朝は食欲がなくて「朝ごはんよ」の声にどうしようと思ったから。
パンと目玉焼きなら強引に流し込める。そう思い、まずはジュースをひと口。
瑞々しい甘さが、胃袋の奥へ染み込む。干からびた土が、雨水にほぐされるみたいな。
おかげで普通に、おいしく食べきった。
「いってらっしゃい。しんどい時は、すぐに帰っておいでね」
玄関を出ると、なぜかばあちゃんも。家の前の路地まで出て、オレが表の通りを折れる時も、まだ手を振っていた。
近所の人が見てやしないか。ほとんど走るくらいの急ぎ足になる。
土原学園に友だちが行くから、と強引に進学を決めた。親にも、ばあちゃんにも迷惑をかけている。
楽しく高校生活を送れるなら、好きにすればいい。そう言われて、オレもそのつもりだった。
しかし今、とてつもなく重い言葉に感じる。
一年A組が凄まじく近く感じた。靴箱から、一万キロくらいあればいいのに。
鉛の上履きを引き摺っても、二階の二番目の教室へはすぐに辿り着いてしまう。
バス停で二本見送ったから、もう予鈴は鳴った。ガヤガヤの収まらない教室の後ろを、気配を殺して歩く。
白い目が一斉に浴びせられると思った。しかし逆に、誰も見ない。近くから、遠くから、盗み見はされるけど一瞬だ。
ああ、こういう感じか。
机はある。直接的な攻撃はない。それならオレが、ひとりでいるのを受け入れればいいだけ。
胸やけみたいな熱さを腹に抱え、妙な安堵めいた気持ちに苦笑する。
落書きもなかった。それなら必殺の寝たふりで、ひたすらやり過ごそう。
机に伏せると、たくさんの視線を感じる。頭を少し動かし、こっそり辺りを窺った。
けれども誰も、こちらを向いてはいない。オレの思い込みか。
また視界を閉ざす。あと五、六分のはずの本鈴までが長い。
しかしやがて、廊下も教室内も静まった。立ち歩く気配もなくなった。
もういいだろう。タイミングを計り、そっと顔を上げる。時計は八時四十九分。
視界の端に、なにやら見えた。隣の席の明椿倫子、キツネ女子がオレを見ていた。
だが横目を走らせると、もう当人は前を向いていた。
言いたいことでも?
少しだけ顔を向けても、リアクションはない。切れ長の眼が、担任のやってくる扉を見つめた。
オレは逆に窓の外を向き、無意識に噛み締めた奥歯がキュッと甲高く鳴いた。
***
津守先生に無断早退を咎められたりしつつも、四時間目までが済んだ。
「あー、体調を崩したのは仕方ないが。伝言くらいしないと周りが迷惑するだろ」
って。クラスの誰かに頼んだら、それは伝わるんだろうか。
さておき、昨日のアドバイスが失敗に終わったことを報告に向かった。職員室と、食堂と、どちらにもパンツスーツの姿がない。
すると社会科資料室か。行ってみたが、鍵がかかっていた。
もう当てがなく、全校を探していたら昼休憩が終わる。
どうしたものか。考えていると、それほど賑やかでない話し声が聞こえた。ただしオレの睨む正面の扉からでなく。
声に目を向ける。ちょうど控えめに、図書室の扉の開く音がした。
出てきたのは、緑色の校章。三年生の女子が二人。胸に本を抱き、笑い合って階段を下る。きっとオレがいるのに気づいてもない。
昼休憩も貸し出してるのか。
と感心したが、よく考えると中学の時もそうだった。オレが図書室で読んだと言えば、名作漫画集だけだが。
まあ目の前だし、覗いてみることにした。まだまだ自分の教室へは戻れない。
図書室は、図書室のにおいがした。長い時間置かれた本の香り。匂いとも臭いとも言いがたい、ばあちゃんの家の本棚とも違う独特の。
窓ぎわに腰高の書棚が奥まで並び、天井まで届きそうな棚が平行して、背中合わせに八列。
おすすめの本、なんてコーナーはない。図書委員による書評、みたいなものもない。
無愛想で、図書室というより倉庫って感じがした。
それでもオレの右手に貸し出しカウンターがあって、きちんと図書委員も控えてはいるが。
「あれ」
と思ったのは、ポニー先輩だった。いや図書委員かもしれないけど。
丸い顔を見て、保健室登校ならぬ図書室登校と言っていたのを思い出す。
「ん? ああ、また間違えたの?」
読んでいた本を作業台に置き、先輩が顔を向けた。
オレを覚えていたようだ。自分のクラスに行けないと言うからナイーブなのかと思えば、最初のセリフでからかわれた。
「えっ、そんなわけないでしょ」
「うん。だと思った」
鼻から息を抜く、小さな笑声。ルの字のような困った眉。読みかけの本は、分厚いハードカバー。
蛍光灯が一つ置きに外され、薄暗い部屋。しとしとと降り続く、梅雨の真ん中にいるようだ。
ほかに誰もいない、この広い図書室に、とてもお似合いと思う。本人には言えないけれど。
「なにか用?」
「用って、ここは図書室ですよね」
「本、読むの?」
かくん。と首を曲げ、ポニー先輩は問う。これは冗談でないと、不思議そうな顔で分かる。パクチー食べられるの? と言葉が変わっても、まったく違和感がない。
「オレ、先輩になにかしましたっけ」
「あ、ゴメンそういう意味じゃなくて。なんていうか、落ち着かない雰囲気だから。昨日もだったけど、今日はもっと」
なんだ、霊能力者か?
どう答えていいか、言葉に詰まる。自分の胸から足下を見下ろしても、おかしなところはないと思う。
「まあ……そうです。七瀬先生を探してて、ここが開いてたから覗いてみただけで」
窮状を晒さないよう、言葉を選ぶ。なのに先輩は、眉をますます困らせる。眉間にぎゅっと、深い皺が刻まれた。
「七瀬先生を?」
「え、ええ」
じっと。じいっ、と。
眼力で穴でも空ける気かというくらい、見つめられる。
好意的な空気ではなかった。しかし免疫のないオレを恥ずかしがらせるには十分。
「あのっ。先輩?」
「……知ってるの?」
カウンターに手を突き、乗り越す勢いで顔が迫る。
ついでに揺れた。なにがとは言いづらいけれども、でかいなにかが。
反応に困る。挙句、主語のない質問。
仰け反りつつ、意味するところを考える。知ってるの、とはつまり、知っていれば意外なこと。に、心当たりはあった。
「資料室、とか?」
壁に目を逸らしたのは、照れのせいでなく。階段を挟んで隣の、社会科資料室を示唆するため。
だが正解かどうか、ポニー先輩はすぐに答え合わせをしてくれなかった。
静かで長い息を三往復。ようやく視線の鎖がほどいてくれる。
ただ椅子に座り直しても、オレの顔を見ながら「うーん」と悩む。
「内緒って言われなかった?」
「はあ、言われました」
「じゃあ私にも、探しに来たって言っちゃダメじゃない?」
推理もので探偵が追い詰める時みたいだ。なにをとは言わず、話が進む。
もちろんオレには意味が分かり、「あっ」と声を上げることになった。
「ですね……」
「きみ、うっかりさんだね」
「気をつけます」
警戒は解けたようだ。ポニー先輩は今日最初のジョークと同じに笑う。
オレも笑ったが、苦笑いだ。
「名前は?」
「見嶋です。見嶋行雄」
「私は
名乗って手を差し出す人を初めて見た。驚いたが、断る理由もない。握り返すと、濡れたおしぼりみたいにひんやりした。
「ねえ見嶋くん。クラブ活動、まだ決めてないよね」
雨の中に居る人。濡れたような声。それは勝手な印象だったのだけど、先輩の手を放したオレの手は濡れていた。
どうしてこんなに手汗が?
汚いとかは思わなかった。顔にはまったく汗なんかないのに、どうしてだ。
「そりゃあ、まだ三日目ですし」
デリケートなことだし、気づかなかったことにした。
先輩はオレが気づいたことに気づかなかったらしい。座ったばかりのお尻を上げ、今度は頭を下げる。
「良ければ、文芸部に入ってあげて。七瀬先生が喜ぶと思うから」
「ええ? それってどういう――」
説明を求めたつもりだが、ポニー先輩はそれ以上を言わない。
文芸部というと、部員が一人も居ないと聞いた。喜ぶと言うなら、まずこの人が入ればいいのでは。と考えたのは、おかしかったろうか。
「あの、先輩は?」
「ううん。私は入れないから」
「二年生だから、じゃないですよね」
オレを見ていた視線が、カウンターの下へ落ちる。でもすぐ、上目遣いながら戻ってきた。
「七瀬先生は人気があるから。私なんかが入部すると、叱られちゃう」
「叱られるってそんな」
望む部活へ入ったからって、誰に叱られるんだ。
言いかけて、気づいた。弥富先輩は、自分のクラスへ登校できない。
「無理にとは言わないよ。できれば、ね」
忘れてもいい。とでも言いたげに、ポニーテールが横を向いた。さっきまで読んでいたハードカバーを手に取り、視線が文章を追い始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます