第11話:バカな男

 田村良顕は、特にこれと言うこともない平凡な奴だ。

 初めて話したのは中一の入学式の日。二度目に話したのは一月。それが月に一度くらいに増えたのは、中二でも同じクラスになったから。


 授業中に手を挙げたのを見たことがない。文化祭や体育祭、球技大会などで鳴りを潜めていたことがない。

 お小遣いに余裕のあるクラスメイトを集め、カラオケやゲーセンに繰り出す企画もやっていたらしい。オレは誘われたことがないけれど。お小遣いの余裕もなかったけど。


 オレとは違う意味で、男女の分け隔てがない。トイレ前での事件の時は、次の日に教室の後ろへ呼ばれた。

 なにかと思っていると落とし主の女の子も呼ばれ「見嶋って勘違いされやすいけど、いい奴なんだよ。許してやってよ」と。


 いやもうその話は解決している。オレが言うと女の子も頷き、田村は「えっ、マジで。知らなかったゴメン!」と笑う。

 正直、わざとかと疑った。しかし思い返しても、それから先も、奴はいつも誰に対してもそういう感じだった。


 良くも悪くも、あいつはバカだ。だから決定的に嫌われることがない。

 決定的に好かれることもなかったと思うが、面白いという評価が多かった。


「ふう……」


 ばあちゃんの家の、玄関わき。すきま風が足下を冷やす。

 黒電話と同じ形のプッシュホン。ベージュの受話器に、花柄のカバー。手を触れては離す、のは何度目か。


 茶髪女子に責められた時、田村は言った。言いわけを考える前に事実を認めないと、話が始まらない。

 あの時は、なんでだよと思った。でも実は、スーツの女の子と同じことを言っているんじゃないか。


 オレに覚えがなくても、茶髪女子がそう考えるだけのなにかはあった。と考えれば、今なら話の持っていきようを思いつく。

 せっかく田村が言ってくれたのに、オレは逃げ出した。謝ろうと思うのに、勇気が出ない。


 あいつはなにをしているだろう。昼休憩の間にカバンも置いたままで学校を出たオレには、予測と妄想が同義だ。

 壁の時計を見ると、もうすぐ午後八時。茶髪女子の鬱憤晴らしに付き合い、帰宅したかどうか。


 それとも直に家へ帰り、晩ごはんどきか。どちらにしても下校まで、オレの悪口でもちきりだったろう。

 メモ帳を閉じ、回れ右をしようとする。

 けれど足が動かない。なぜか頭に、三本指を突き出した七瀬先生が浮かぶ。


 パンツスーツより、体操着の似合いそうな女の子。あの仏頂面だと、そうでもないか。

 言われたことは、いちいちもっともだった。下手に任せろとか言わない分、現実的だなと思う。


 なんだか嫌な知り合いが居るって。あの時だけは感情がだだ漏れだった。

 田村卓哉。従兄と言っていたから、クラスメイトの田村が厄介になっている親戚の家の人かもしれない。


 たしかオレが小さいころに住んでいた町の、となり町と聞いた気がする。

 こんもりとした森。ベーブレ仲間だけの神社。広い日なたと、いくらでも風の抜ける木かげ。

 懐かしい景色がまぶたの裏を埋め、オレは息を止めた。


 ……タク兄?


 タクヤという名前。あの神社へ歩いて行ける距離。大学の同期というスーツの女の子が幼すぎて、歳は分からない。でもアラサーってことはないはず。

 六歳だったオレが十五だから、中一だったタク兄は、二十三か二十四。

 ピッタリじゃないか。


 オレにとってタク兄はタク兄で、本名があるという発想がなかった。

 もう会えないから、諦めてもいた。そのつもりだった。

 だがオレの手は、受話器を耳へ当てていた。軽快な呼び出し音が、推測を肯定するように聞こえた。


 五回。

 十回。

 田村は出ない。

 十五回目。これでダメなら、切るしかない。耳から受話器を離しかけた時、呼び出し音が途切れた。


「なんだよ」


 あからさまに感情を殺した、平たい声。用意したネタを披露する時、あいつがよく発した声。 


「あっ。ああ、ええと、悪い」

「俺に謝る必要はないだろ。つーか、あのあとどうしてたんだよ」


 タク兄のことを聞きたかったのに、こいつはなにを言っているんだ。一瞬、そんな感情がよぎる。

 しかしそんなこと田村は知らない。出しかけた声を飲み込み、あらためて答えた。


「教室に戻るのもなんだか、な。ほら。それで結局、家に帰った」

「まあ気持ちは分かるけど」


 登校二日目で、教室にいられなくなった。田村の問いは、現実を明確にする。

 恥ずかしくて、ごにょごにょ口ごもった。なぜか図書室前のポニー先輩を思い出した。


「けど? 恵美須が荒れて困ったとか」

「いや、反対。しばらく黙ってて、昼にはもう普通だった。『あんなの最初からいなかったと思えば、どうってことない』ってな」


 厳しい言葉だ。抑揚なく言われると、田村自身の気持ちのようでつらい。

 だがそれなら今朝のように、話す暇もなく畳み掛けられることはないのかも。


「明日、謝ろうと思うんだよ。なにが悪いか分からなくても、最初にゴメンだよな。お前も言ってくれてたけどさ」

「謝るってお前、恵美須の言った意味を考えろよ?」

「最初から居なかったと思えば?」


 うん、だったか。息を呑んだだけか、判別つかない。

 肯定されたのはたしかだ。ただでさえかなり冷たい言葉を、声に出さず三度繰り返す。


「オレは最初からいない――?」


 足元が雪で覆われた。右足も左足も、落ち着いて床に着けていられない。凍える冷気が背中を駆け上り、首の周りへ悪寒を呼ぶ。

 オレの理解に間違いないか、田村は答えてくれなかった。


「明日から俺に話しかけるなよ。電話もだ」


 代わりに聞こえたのは、恵美須よりもはっきりとした絶縁の宣言。

 じゃあなとも言わず、電話を切ろうとする気配がする。


「あっ! ま、待ってくれ!」


 どうしてもというなにかが、思い浮かんでいたわけじゃない。たぶん黙って受け入れるのが嫌だった。

 無視して切ることもできたはずだが、ツーツーとは聞こえてこない。


 最後になにを言うか、必死に考えた。考えようとした。でもどうにものろまになった頭は、てんで答えを出さないままだ。


「なんだよ。なにか言うんなら、早く言え。もう切るぞ」

「あ、いや、その。お前が住んでるの、親戚の家だっけ。卓哉って従兄がいるのか?」


 茶髪女子のことは、もう言葉がない。明日からどうしようってことで、頭がいっぱいになっている。

 だからタク兄のことを聞いたのも、無意識だった。


「はあ? いるけど、関係あるのか」

「えっ。いや、ない」

「変だよな、お前」


 ボソリ。言うと同時に、電話は切れた。無機質に続く信号音から、耳が離せない。

 ずっと、ずっと。その場にオレは立ち尽くした。

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