第10話:選べない選択肢

 四時間目が終わり、職員室に向かった。結局ズルズルと、一年A組へは戻れなかった。

 オレの出欠はどうなっただろう。カバンもあるし、クラスメイトは「どこかに行った」としか言わないだろうし。


 各教科の先生はともかく、津守先生に会えば問い詰められる。

 結果としてサボった以外に、オレには非がないはず。だから担任に事情を話すべきと気づいていたが、先に話したい相手がいた。


 出入りする生徒や先生に紛れ、職員室の中を見回す。津守先生の姿は見えたが、その人はいなかった。

 するとどこか。考えたところで当てもなく、単純に昼食かなと食堂へ向かう。あれだけお菓子を食べたなら、可能性は低かったが。


「いるし」


 昼休憩が始まって、まだ十分ちょっと。

 配膳カウンターから最も近い席にパンツスーツの女の子、七瀬先生はいた。ラーメンと炒飯らしい皿を抱え、完食寸前だ。


「あの、七瀬先生」


 後ろに回って声をかける。が、気づかない。両隣の二年生が、ノートを片手に話しかけている。


「ナナちゃん、一年生が呼んでるよ」


 もう一度呼ぶ前に、正面へ座った先輩が気を利かせてくれた。

 どうやらスーツの女の子を囲む先輩たちは、友だち同士らしい。互いに目配せしつつ、チラチラとオレを見る。


「ん?」

「あの。鍵を、どうすればいいかと思って」

「んあ。少し待て」


 振り向いた女の子は口の中の物を飲み込み、頷いた。

 すると正面に戻り、ふた口分の炒飯となみなみ残ったラーメンのスープを飲み干す。あっという間に。


「悪い。こいつの相談を受ける約束をしていたんだった」

「いいよ、また教えてね」


 数学の教科書を手に、置いていかれる格好の先輩たちが手を振る。それはオレにも「しっかり聞いてもらいなよ」と激励までもらった。


 食器を返した女の子は、着いてこいとも言わず歩く。そういう機械みたいに、細い脚を規則的に動かして。

 相談にのってほしいとは言っていないが、どこへ行くのか。後ろのオレを気にする素振りもなく、黙って進まれると不安が募る。


「入れ」


 忘れられてはいなかった。職員室の隣、生徒指導室の引き戸を開け、女の子は小さな顎で中を示す。

 扉の札を使用中にひっくり返し、オレの背中を押して部屋へ入る。


「なんだ」


 扉が閉められると、密室という感じがした。

 ベージュのカーテンで窓が見えず、ソファーとテーブルの応接セットで部屋が埋まっているせいだ。


 ふたり掛けのほうにオレが座ると、十センチ以上もお尻が沈んだ。対面のひとり掛けに座った女の子は、まったく沈まない。

 浅く前のめりのオレと違い、女の子はゆったりと背もたれへ体重を預ける。


「鍵は締めたんですが、どこへ返すのか分からなくて」


 ポケットに手を入れつつ、本題でない用件を口にした。


「職員室の向かって左の扉。入って左手の壁に、キーボックスがある。脇の管理簿に返却時間を書け」

「わ、分かりました」


 女の子は表情を動かさず、ハキハキと描き文字の見えそうな口調で答えた。

 口だけが可動部位で、ほかは木彫りのお面かなと思う。お面と言っても人間でなく、どことなく猫っぽいけれども。


 出しかけた鍵をポケットに押し込み直し、俯いた。どうすればいいか、なにを言えばいいか分からなくなった。

 鍵を渡してくれたのは、オレの立場を察したのだと思ったのに。事情を知らなくとも、逃げ隠れしたい時はあると鷹揚に。


「それだけか?」


 感情の篭もらない声は、不機嫌に聞こえる。上目遣いに見ると、表情もない。

 直接に話すのは、今日が初めて。怒らせる心当たりがなかった。社会科資料室に居たのも、さっきの会話で漏れはしないはず。


「ええと、その。先生は数学の担当なんですね」


 なにか言わなきゃと焦り、そんなどうでもいいことしか浮かばなかった。しかしそれさえ「いや?」と否定される。


「私は歴史の担当だ。食堂でのことを言っているなら、彼女らが私個人を慕ってくれたに過ぎん。私にも高校生だった時分はあるからな、どの教科でもまったく分からんということはない」

「なるほど、です」


 試験勉強は一夜漬け、のオレにはかなりすごいことを言っている印象だった。しかし女の子は、やはりまったく表情を変えない。声色もだ。


 それから数分。女の子の背後にある時計によれば、正確に六分。オレの頭のてっぺんを、スーツの女の子は見つめ続けた。

 が。しびれを切らしたか、聞こえるように細い息を吐いた。


「あいにく私は、超能力者の類でない。用件は口に出してくれねば分からない」

「で、ですよね」


 当然だ。七瀬先生が察していようといまいと、オレが言い出さなきゃ始まらない。

 食堂に居た先輩たちは、よく聞いてもらえと言った。でもなんだかずっと機嫌の悪いこの人に?

 心の中で、古びたシーソーが激しく揺れる。


「それでも一つ、可能性を潰しておくなら。あの部屋に居たことを黙っていろと言った理由は教えてやらん。それなら言いふらす、と言うなら好きにしろと答える」


 また少しの間を置き、言われた言葉に突き放された気がした。

 なんだか知らないが、自分にまずいことを心配しただけか。だがそれにしては、好きにしろと言うのがよく分からない。


「いやオレ、実はクラスの女子に責められて」


 自分のことを「好きにしろ」と投げ出すなら、オレもだ。

 同調したり、絆されたりする理由はなかった。反発心のような気がしていたけど、そうもなっていない。


 わけの分からなさに、どうでも良くなったのかもだ。登校してからのことを、順に話した。たぶん言い忘れはないはず。


「それで資料室が開いてて」


 社会科資料室で出会うまでを聞いた女の子は目を瞑り「んー」と。短い髪に小さな手を突っ込み、分け目をぼりぼり掻きむしる。


「状況は理解したが、それでどうしろと?」

「え……」

「選択肢が浮かばんと言うなら、それを挙げればいいか」


 やはり放り出すのか。そう落胆した次に、正反対の言葉をもらった。

 なんだぶっきらぼうなだけで、とても生徒思いの先生らしい。先輩たちに慕われるだけある。


「はっ、はい。お願いします!」

「うん。しかし選択肢とは言ったが、さほどの余地はない」

「と言うと?」


 現金にもほどがある、弾むオレの声。だが女の子は変わらない。人さし指を立て、スッとオレに突きつけただけ。


「一つ、私ないしは担任に相談し解決を求める。二つ、自分で交渉し和睦を図る。三つ、関係修復を諦める」


 三本指の手は、すぐに引っ込められた。同時に彼女は「どれを選ぶ?」と。ラーメンとうどん、パスタならなにを食べるか。そんな風に。


 それだけ? というのが、正直な気持ちだった。そんなことなら、わざわざ挙げてもらうまでもない。

 特に三つ目の、諦めるってなんだ。

 からかわれている、のではないだろう。だとしたらもっと、へらへらニヤニヤしてなきゃおかしい。


「あの、できれば一つ目を」

「教師の介入か。やれと言うならやるが、勧められない」


 なんだこの人は。

 選択肢と言うから選んだのに、それを今度は勧められないって。

 分からない。オレは自身の拳を、額に打ちつける。


「勧められないって、なんでですか。普通はこういう時、先生が間に入ってくれるものじゃないんですか」

「お前が望むなら、そうしてもいい。しかしいいのか?」


 まさか茶髪女子とグルなのか。それでオレを煙に巻こうとしているのか。

 そんなはずはないのに、イライラした気持ちが妄想を膨らませる。テーブルへ両手を突き、オレは詰め寄った。


「いいに決まってます」

「そうか。ならば私は、お前のクラスメイトから事情を聞く。そうなった原因は突き止められるはずだ」

「お、お願いします」


 ダメだこの人。と思えば、今度はやけにはっきりと請け負う。それで文句はないはずなのに、オレの語気が弱まってしまう。


「しかしここまでお前を追い込んだんだ。お前の言う通り、まるきりの勘違いだったとしよう。相手は非を認めるかな」

「それをどうにか」

「どうにか表面上は収められる。しかし人間の感情としてどうか、だ。ろくに根拠も示さず、集団でお前一人が攻撃されているんだろう? 私の同級にも、そういう連中は居た」


 選択肢はあるが、選ぶ余地に乏しい。

 七瀬先生の言った意味が、ようやく理解できた。先生とか強い立場の人が口出しすれば、逆効果だ。

 たぶん茶髪女子たちは、オレが悪いのに棚上げしたと受け取る。


「じゃあどうすれば」

「私なら、集団の中でも話の通じそうな奴に接触する。原因を突き止め、問題を解決してからなら、話し合いが成立するかもしれない」

「そんなの順序が逆さまじゃないですか」

「よくあることだ、教頭も言っていたぞ。夫が悪いのに、機嫌をとってからでないと話にならないとな」


 感情的になってしまうと、そういうものだろう。中学校のトイレ前とはまた違う。


「オレが悪かった場合は?」

「素直に謝る以外ないだろう。許されるとも思えんが、それこそ選択肢がない」


 気が重い。いや全身が重い。

 茶髪女子の怒りが髪の毛を原因にしているなら、まず間違いなくオレは関係ない。

 それなのに、どうしてこれほど面倒な状況に陥るのか。


「まあ、そうですね」

「話のできそうな奴がいるのか?」

「ええと、たぶん田村なら。同じ中学から来た男子なので」


 出す声が全て、ため息混じりになる。

 どうするのか考えるのも億劫だったが、女の子の問いに答えれば良かった。

 ただ、ここまで感情を見せなかった彼女が「ん?」と、低い声をさらに低めた。


「田村と言ったか」

「知ってるんですか? 田村良顕っていう」


 渋柿でも食べたみたいに、女の子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。「まあな」と頷けば、元に戻ったけれども。


「そいつの従兄いとこのほうだが、田村卓哉たくやという。大学の同期でな、腐れ縁だ」

「はあ」


 そこまで言って「それはどうでもいい」と手で宙を払いながら、脱線が修復された。よほど嫌な相手のようだ。


「選択の余地がないと言ったが。結局のところお前は、関係の修復を諦めるしかない。期限付きか、永遠にかは別として」

「ああ……」


 もう一度、三本指が示された。オレに与えられた選択肢は、実質的に一つしかなかったと。

 背景を田村に聞くなら、帰宅してから電話でになる。それから解決方法を考え、実行するには何日かかるか。

 それまでこの状況は続くのだ。絶望が暗いカーテンのように目の前を暗くする。


「まあしかし、お前は私に頼むと言った。希望したのとは違うことになるだろうが、なにかできることを考えてみよう」

「え、あ、ありがとうございます」


 一巻の終わりくらいの気持ちだった。だが最後に、七瀬先生の言葉が足下を照らした。巻末と思った次のページに、つづくと書かれていた。

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