第9話:きみは図書室

 ダンボール箱のベッドに腰掛け、ぱたり。背中を倒すと、想像より寝心地が良かった。タタミベッドみたいで。

 まぶたを閉じ、大きく深呼吸。腹の底に淀んだものが、少し出ていった気がする。目を開けると、白い空に茶色のカモメが無数に飛んだ。


 見慣れていると言えばそうだが、まじまじ見上げることもあまりない。でもたしかに覚えがあって、いつだったか考える。

 別の記憶を探していれば、迫ってくる茶髪女子の顔は浮かばなかった。ただし代わりに、昔のことを思い出す。


「ああ……」


 あれは中学一年の終わりころだ。まだ男と女の違いとか意識していなくて、強いて言えば好きな漫画やゲームの話が通じなくてつまらないってくらい。

 それが初めて、意識が傾いた。


 トイレの前の手洗い場で、小さな巾着袋を拾った。名前がなくて中を見ると、薄いビニールに包まれた四角い物がいくつか入っていた。

 個別包装のチョコかクッキーかなと思ったが、スポンジでも入ってるみたいにふわふわだった。ポケットティッシュにも見えたが、どうも違う。

 それがなにか、当時のオレは知らなかった。正体はさておき。全部取り出し、一つずつの表と裏を眺めた。落とし主を知るために。


 ふと気づくと五、六歩先に女子が立っていた。クラスメイトの、おとなしくて可愛い子だ。

 呆然と泣きそうな顔でオレの手もとを見ていたから、持ち物にイタズラされたと思ったのかも。そう考え、まずは「お前のか?」と聞いた。肯定されれば、勝手に開けたのを謝ろうと思って。


 しかしその子は、声を出して泣き始めた。泣き叫ぶってほどでもないが、近くの教室から何人も顔を出すくらいに。

 どうしてこんなことをするのかと、駆けつけた女子たちに問い詰められた。わけが分からず、増援の一人に巾着袋と中身を押しつけた。


 オレはあの時も逃げて、気分が悪いと保健室に隠れた。

 ベッドに二時間くらい居たのだったか、泣いた子と何人かがやってきた。

 拾ってくれたのは分かっていたが、恥ずかしくて泣いてしまった。事情を聞いて謝りに来た。と、揃って頭を下げる。


 オレにはまだ、事情が分からない。だが恥ずかしいらしいから「いいよ、ごめん」と謝った。

 それから女子たちを嫌いというか、苦手に感じ始めた。面倒と言えば、いちばん正確かもしれない。


「ほんと、面倒くさ」


 ダンボール箱のベッドに、細い太陽光が射し込む。閉じたカーテンの隙間から、厭味なくらいに青い空が覗く。

 雲の形を視線でなぞり、できるだけ頭を空っぽに。誰の声も気配もない、静かな時間が流れていった。


   ***


 一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 ここへ留まり続けるか、一年A組へ戻るか、ばあちゃんの家に帰るか。思いついたうち、三つ目はダメだ。ばあちゃんに余計な心配をさせることになる。


 教室へ戻るのはアリだけど、まだ勇気が出ない。もう一時間だけサボって、三時間目からにしようと自分を甘やかす。

 そうと決まれば授業時間中に動かなくていいよう、トイレに行っておこう。ずっと人の気配のないことで、大胆に扉を開いた。


 各階の廊下の突き当たりがトイレになっている。目を向けると、ちょうど一人の女子が出てきた。

 胸に刺繍された校章は、青。二年生だ。

 特別教室しかないこの階に、なぜひとりで? 考えることは同じだろう。長いポニーテールを傾け、オレを見つめる。


 丸く、自然に薄っすら微笑んだような顔。その中で眉だけが、ちょっと困った風に歪む。どこかで見たような、デジャヴっぽい感覚に襲われた。

 オレが言うのもなんだけど、学生ってこうだよねと思う可愛い人だ。でも、いかんせん場所が悪い。素知らぬふりで男子トイレに入ってしまうことにする。


 あなたを見てはいませんよ、オレの見ているほうにあなたが居るだけですよ、というていで近づく。

 オレの目線と同じ高さに、栗色の頭頂が通り過ぎる。ポニー先輩は一歩も動かず、ごまかす様子もなくこちらに顔を向け続けた。


「ねえ、きみも?」


 おそるおそる。しっとり濡れたような声がした。

 トイレに入るのだから、行動の選択肢はそれほどない。むしろポニー先輩は、小か大かの二択を宣言したと言っていい。

 わざわざ共感を得ようとする意図が、まったく不明だった。


「きみも、って」

「入るなら、私が鍵持ってるよ」

「鍵?」


 なぜトイレに鍵が。ポニー先輩は謎の発言しかしない。

 扉もない入り口をどう施錠するか、あらためて見ると、他の教室と同じ二枚引きの扉があった。


「あれ、ここ」

「ん? ああ、そっか。トイレと勘違いしたのね。この階にはないから、二階だよ」


 戸惑うオレの胸の赤い刺繍に目を向けつつ、ポニー先輩は笑った。それでも困った眉がそのままで、なにやら悲しそうに見える。


「ごめんね。きみも図書室かと思って」


 また分からないことを。たしかに扉の上を見れば図書室と書いてあったけど、オレが図書室とはなんだ。

 しかも、きみってことはポニー先輩は確実に図書室ってことになる。


 この人の上着を剥がすと、書棚が現れるのか。だとするときっと、突飛な翻訳のされた海外の絵本とかが収蔵されているに違いない。


「先輩は、その。図書室なんですか」


 どう答えていいか分からず、そのまま問い返した。すると先輩は、眉に悲しみを増して微笑む。


「うん、そう。私のクラスにはね、行けなくなっちゃった」

「ああ、保健室登校みたいな……」


 続けて二度頷き、ポニー先輩は「じゃあ」と去った。社会科資料室との間にある階段を、長編のページを捲るように下りていく。

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