第8話:秘密の部屋
各クラスの担任が、自分の受け持ちへ向かう時間。誰にも見つからない場所を求め、オレは走った。
津守先生に会えば、むしろ安心して戻れる。そんな単純なことも気づけずに。
校庭に面した南校舎は、一階が職員室や保健室。二階と三階が、一年生と二年生の教室だ。
トイレに隠れる手もあったが、渡り廊下を選んだ。三年生の教室がある北校舎は、二階と三階に特別教室ばかり。トイレよりも隠れ場所が豊富と思った。
だがすぐ、思惑のはずれたことを悟る。
家庭科室、理科室、パソコンルームなどなど。どれも鍵がかかって入れない。
こうなると学校の廊下なんて、ほとんど死角のない一本道。廊下の先、あるいは後ろに誰か現れないか、気が気でなくなった。
多少の音を気にするより、入れる部屋を早く見つけなくては。およそ等間隔で並ぶ扉を、順に揺すっていく。
「――開いてる」
ねばねばする嫌な汗をかき始めたころ、三階に上がった。
最初の扉。一年A組から最も遠い教室が開いていた。引き違いの一枚が、十センチほど。
誰かいるのか、閉め忘れか。教室札を見上げれば、社会科資料室とある。
たぶん地図などが保管されているんだろう。となると人の長居する部屋ではない。
そっと扉を開け、首を突っ込む。一年A組の半分ほどの広さで、左右の壁は棚で埋められた。対面の窓には、薄手のカーテンが。
筒に丸めた紙やダンボール箱が乱雑に置かれ、それは棚だけでなく床にも。きちんと並べれば、全て収まるだろうに。
あとは部屋の真ん中へ、シングルベッドサイズで脚の長いテーブルがあるくらい。整理したら、きっとスペースを持て余す部屋だ。
というか、カビと埃の臭いがひどい。こんな中に紙の資料を置いて大丈夫なのか。
ともあれ、やはり誰もいないらしい。とりあえずの隠れ家には十分すぎる。部屋に入ったオレは鍵をかけ忘れた誰かに感謝しながら、後ろ手に扉を閉めた。
「ん?」
まずは座って落ち着きたかった。テーブルに近寄ると、ゴミ箱があった。ひっくり返せば、椅子にできる。
しかし中を見て、疑問が声になって漏れた。
ここは社会科資料室。必要な物を運び出し、用が済めば戻すだけの部屋。なのになぜ、お菓子の袋が捨てられているのか。それも十数個。
ここは既に誰かの隠れ家なのか? だとすると一年生ではないだろうし、上級生だ。
その人は、この時間にやってくるのか。出くわしたら、せめて今だけでも居候させてもらえないか。
我ながら卑屈だなと悲しくなったが、先客の存在する根拠を探してテーブルの反対に回る。
するとそこに、決定的な光景が見えた。
「えっ――」
というか、先客そのもの。
中身の入ったダンボール箱を寄せ集め、ベッド状にしてあった。寝そべるのは、オレより頭一つ背の低い女の子。
「七瀬先生?」
体育館で見た時は遠目だったので、同じ顔か自信がない。だらしなく口を開け、垂れた液体がダンボール箱の広い範囲を濃い色に変えている。
色味と言えば、着ているスーツも青っぽい。股を大きく開いているので、パンツスーツで良かった。
でもオレと同じくらいの長さのショートカット。小さくて細い身体は、土原学園にふたりもいないはず。
「んん……」
女の子が寝返りを打ち、姿に見合わない重低音が響いた。
やはり間違いないと確信したところで、次の悩みが持ち上がる。オレはここにいていいのか、別の場所を探すべきか。
「うーん」
低い唸り声。まずい、目を覚ましそうだ。せっかくの隠れ家だが、諦めることにした。
こそこそと扉へ戻り、音のしないよう慎重に開ける。振り返り、起きていないなと確認して、片足を外へ出した。
「見たな……?」
浴びせられたひと声が、足元を泥沼に変える。
呼び止められたのは他の誰か、と勘違いする余地はもちろんない。またなにか、あらぬ疑いをかけられたらしい。
「なにも見てません」
どこへ行っても難癖をつけられるなんて、今日という日は最悪だ。
目まいのしそうなのをこらえて振り返ると、細枝のような腕がテーブルの向こうへ突き上がった。
テーブルを支えに、身体を起こそうとしている。二日酔いみたいに震えて、かなり難儀しているけれども。
ただしアルコールの臭いはまったくなかった。
いつからオレは、ゾンビ映画の住人になったんだ。そう言いたくなるくらい、女の子はふらふら揺れた。立ち上がる前も、あとも。
「見てるだろうが」
小さな手の甲が、小さな口もとを真横に撫でる。いささかの水音を立て、よだれが辺りに飛び散った。
もしかして、みっともない姿を見られたと言っているのか。
そんなもの、寝ていたんだから仕方がない。睡眠中まで直立不動、美麗、秀麗でいろなんて言う奴がいたら、無茶にもほどがある。
「ええと、見ましたけど。オレは別になんとも。恥ずかしいって言うなら、忘れることはできませんが、なかったことにはできます」
「恥ずかしい?」
ゴキッと二回、派手な音をさせて、女の子は首を傾げた。ゾンビ映画でなく、関節を錆びつかせたサイボーグのSFだったようだ。
「オレはなにも見てません。七瀬先生の寝相が悪くて、だらしなくよだれを垂れ流すとか。もし見てたとしても、この部屋を出た瞬間に忘れます」
女の子の首が、反対に曲げられた。やはり大きく関節が鳴り、今度は腕をぐるぐる回す。
「なに言ってんだお前」
「え、だから先生の寝顔を見て……」
あくびをしつつ、オレの頭から足先までを眺める。はだけた襟もとから手を突っ込み、肩から首すじをぼりぼりと掻きむしる。
見た目には中学生女子。中身は成人女性のはずが、どうも中年のおじさんにしか感じなくなってきた。
「んなものどうでもいい。あ、いや、同じことか」
「どういうことですか?」
「どうでもいい。お前の言った通り、忘れろ。私は今日、この時間、ここにいなかった」
今度はオレが首をひねる番だ。「ええ?」と疑問を示しても、女の子は答えない。
床に落ちていたビニールのレジ袋を拾い、お菓子の袋やペットボトルを手早くまとめ、部屋から出ていこうとする。
「あ、そうだ」
一旦は扉を閉めかけ、女の子は戻ってきた。
ようやく目を覚まし、オレのサボりに気づいたか。俯いて首をすくめたが、それでも視界に女の子の全身が残る。
「鍵、締めとけよ」
「あ、鍵。はい――」
そこだけ教師らしく、七瀬先生はプラスチックのタグが付いた小さな鍵を取り出す。
差し出したオレの手に落とすと、今度こそ社会科資料室を出ていった。
かすかに石けんの残り香を嗅ぎ、しばらくオレは扉を見ていた。でもどれだけ経っても、再び開くことはなかった。
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