第5話:揺れる感情
夜。ばあちゃんの作ったご飯を食べてから、電話機の前に立つ。
玄関わき。建て付けの良くない引き違い戸からだけでなく、あらゆる方向からすきま風が吹く。
手には番号を書いたメモ。オレはスマホを持っていない。
五回くらいコールして「どうした?」と応答があった。
「どうしたじゃない。田村、今日のはなんだよ」
「なんだ、って。
「エビスって誰だ。茶髪の子か」
問うてはみたが、オレを誘ったのはひとりだけ。田村も「他にいないだろ」と、ついでに漢字も教えてくれた。
「誘ってくれたのは分かってる。行く気だったけど、あのまま行ったら変態扱いだろ」
「えっ、違うのか」
「それは……ぼんやりさせときたいだろ」
茶髪女子。恵美須むつみの言ったことに、間違いはなかった。
けれどもあえて前面に出す話でもない。誰だってトイレに行くのだから「実はオレ、ウンコすることあるんだ」なんてカミングアウトは要らない。
「そうか? 勝手に言ったって怒ってるんだろうけど、俺は今日、楽しく過ごしたぞ」
楽しかったのは、なんとなく分かる。田村の声が、ふわふわ跳ねるようで。
土原学園へ進学しようとなるまでは、あまり接点はなかった。それでも分かるくらいに上機嫌だ。
「いや、だから。誘われたのは嬉しいし、怒ってるんでもないんだよ。でもなんて言うか、ほら」
「分かった分かった。発情期って思われるのは嫌なんだな」
「そうそう、それ」
勘違いされるのが嫌なだけで、実態は発情期。そう認めたようで、同意したくなかった。
でもいちいち言えば田村だって、好きにしろよとなる。奴は彼女を作ることを目的とした、同盟の相手に過ぎない。
「まあ恵美須も、誘い方が悪かったねって言ってたし。なにか言えれば言っとく」
「え。あの子が?」
「ああ。俺がバカだから、同じ扱いでいいと思ったって。悪かったって」
先にそれを言えよ。「さ」まで声に出しながら、どうにか黙る。
しかし茶髪女子が、そんなことを。次に会ったら、すぐ謝ろう。
「オレもバカでいいんだよ。エロキャラが嫌なだけで」
「分かったって。俺も言うけど、お前も断り入れろよ」
良かった。これで茶髪女子や、他のクラスメイトと普通に話せる。まさか登校初日で致命傷かと、冷や汗ものだった。
それから田村は、今日のできごとをいくつか話してくれる。
十二、三人でマクロナルロに行ったらしい。ポテトばかりを山ほど頼み、結局田村ともう一人の男子がほとんど食べたとか。
なんだそれ、楽しそうだな。
「だから楽しかったって。次はお前も来いよ、またぼっちになるぞ」
「行くって」
受話器を置き「ふうっ」と大きく息を吐いた。安堵のため息と、やっぱりこの学校はいいと思って。
「ユキちゃん。なにかあったの?」
はだか電球の黄色い灯りの下、背中の側から声がかかる。ばあちゃんだ。
振り返ると、廊下の奥からオレを見ていた。台所の扉のところで。
黒髪と白髪が半々くらいの、くるくるパーマ。オレの胸くらいしかない背丈。色付きのかっぽう着は、日ごとに柄が違う。
以前は正月くらいしか会わなかったけど、いつも笑っている印象しかない。この二、三年は会えてなくて、久しぶりのばあちゃんはいつも困った顔をしている。
「なにもないよ。今日、学校のみんなが遊びに行ってたんだけど、次はオレも来いよって」
部屋を二つ通り過ぎる長い廊下。踏むたびに、重い音色できしむ。
古くて、黒く汚れてて、すきま風は春でも寒い。だけどこの家を好きだと思う。
「ああ、そう。悪い話じゃないなら良かった。おばあちゃんに気兼ねしなくていいんだからね」
目の前まで行くと、ばあちゃんは背中を向けて台所へ入った。ロボット掃除機が充電器へ戻るみたいに、流しの位置へ立つ。しかし手には、電球が握られていた。
「ユキちゃん、お茶かコーヒーでも飲む?」
「ううん、今はいいよ。それよりばあちゃん、電球換えるんじゃないの?」
「ああ、そうだった。ユキちゃんは、よく気がつくねえ。頼める?」
電球の交換くらい、脚立を使えばたぶんばあちゃんにもできる。
だけどおずおずと差し出された、細かに震える両手を見れば、とてもさせられない。
「頼めるよ。他のことは?」
「ええと、もう一つだけいい?」
もみ合わせる自分の両手を見つめ、ますます小さな声でばあちゃんは続けた。納屋の高いところに、読みたい本があるらしい。
もちろんオレは、すぐ要望にこたえた。
***
土日を挟み、月曜日。ひとつ遅いバスで行くと、クラスの半分くらいが教室にいた。
時間はちょうどいいけど車内の混むのがな。なんて思いながら、目立つ茶髪を探す。
「あっ、恵美須さん!」
茶髪女子は教室の真ん中で、他の女子たちと話していた。そこは当人の席の斜め前で、既に定位置みたいになったらしい。
「ああ、おはよ」
「おはよ。ええと、その。金曜日のこと、謝ろうと思って。誘ってくれたのに」
呼ぶとすぐ、小さく手を上げてこっちを見た。会話を途切れさせてしまったけど、にこやかに。
「ええ? そんなの気にしてたの。あたしが無茶ぶりしただけなんだし、謝らないでよ」
軽く下げたオレの頭に、茶髪女子は自分の手を押し当てる。つっかい棒みたいに。話していた他の二人に「ねえ」と笑いかけもした。
「良かった。オレ、女の子とはあんまり遊んだことなくて。ノリがよく分かんなくて悪いけど、また誘ってよ」
「おっけ、次は行こうね。なんか楽しいこと考えといて」
合わせて「おっけー」と親指を立ててみせ、平静を装ってオレの席へ。バクバクと心臓が脈打つのを、察せられないかヒヤヒヤしながら。
腰掛けると思わず「ふうっ」と声が出た。慌てて周囲を見回したが、幸い誰も見ていない。
ただ、前の席は留守だったけど、隣は居た。キツネ女子、明椿倫子はひとり静かに本を読んでいた。
布のカバーのかけられた、文庫本。正しい座り方、と題されて教科書に載っていそうな、伸びた背すじ。
クラスに一人は居るよなと思いつつ、中でも特に
カバンから筆箱を出したりしながら、盗み見る。鋭い視線がゆっくりと文章を追う以外に、まったく動かない。
まあいいか。
聞かれていても、この子ならからかったりしないだろう。キツネ女子の読書を邪魔しないよう、オレも現代文の教科書を開いてみた。
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