第2話:気持ちはうつる

 あと数日で通い始める、土原ひじはら学園を目の前に考える。

 どの高校へ行くか、みんななにを基準に決めたんだろう。

 工業科とか、専門的なことを学びたいなら明解だ。でも普通科で、偏差値なんかも違わないとしたら。


 公立か私立か。通学距離や手段。見学した時の雰囲気。それに今の友だちと、一緒に行けるか。

 クラスメイトも先生も稀な例外を除き、そういうものを基準にすると言っていた。


 うん、分かる。どれも大事だ。

 でも本当にそれだけで? だとしたら、つまんなくないか?

 十五歳から三年間も過ごす場所。しかもそう簡単に変更はできない。

 もっと大切なことがあるだろ? って、心から思う。そしてオレの判断は、間違っていなかったとも。


「なあ見嶋、天国ってあるんだな」

「ああ田村たむら。お前が教えてくれたんだ」


 住宅地の外れ。公道からわずかに十メートルほどの引き込み道路が、左右に開く華奢な校門へ続く。

 その向こうはコンクリートタイルの敷き詰められた、こちらとは別世界。植え込みには真実一路と校訓の彫られた石がいかにも。


 ベージュに塗られたありきたりな校舎が、厳かな神殿に見えてくる。背後に山を抱えるのも、雰囲気作りを手伝っていた。

 眺めていると、涙をこぼしそうに胸が熱い。


「んーはっ、んーはっ」

「おい田村。通報されるぞ」


 オレたちが立つのは、引き込み道路手前の公道。なのに中学三年間のクラスメイト田村良顕よしあきは、神界の空気を少しでも多く取り込もうというのか。鼻と口とを使い、辺りの空気を吸い尽くそうとする。

 さすが稀な例外・・・・と褒める場面かもしれないが、目立つのは良くない。


「お前もやってみろよ。すげえいい匂い」

「知ってる。やめろとは言ってない、バレないようにだ」


 深く。

 深く。

 深く静かに、鼻から息を。

 答えるにも田村へは向かない。正面の神聖な空気に、伸びっぱなしの髪とニキビくさい男の体臭を混ぜてはいけない。


 まあ見てくれはオレも似たようなものだ。違うとすれば奴はくたびれたトレーナーで、オレは買ったばかりのダウンジャケットというくらい。

 あとは百七十センチ足らずの身長まで、ほぼ同じ。


 すううっ、と隣の息が静かになった。

 そうだ、それでいい。なんて偉ぶって、オレも神儀に戻る。清々しい境内を見渡す、神主の心持ちで。

 化粧品か、香水か。制汗剤かもしれない。人工的な花の香りがこの先に充満している、気がした。


 二つの校舎を繋ぐ、渡り廊下。校舎の脇から奥へ伸びる、真っ白な校庭。

 まだ春休みで、人影は多くない。しかし見かける姿は百パーセント、ライトグレーのブレザーとスカートを纏う。

 遠く聞こえる管楽器のチューニングにも、プリーツが付いてると思えた。


「本当に女子校なんだな」

「そうだ。でも俺たちは、合法的に出入りできる」


 合法とかいう単語の出る時点で、田村の発想はヤバい。

 昨年度で女子校としての歴史を終え、今年度から共学になる土原学園。そう聞きつけ、一緒に行こうと誘ってくれた男だけはある。


「なあ。なんでオレに声かけたんだ? 高校生になれば彼女が作れるって、お前だけのほうが競争率低いだろ」


 こんな楽園をひとり占めにしなかった。なんて感じるオレも、人のことは言えない。

 共に栄光を勝ち取った今、感謝の気持ちを伝えたくなった。


「え? お前、ぼっちじゃん」


 田村の声に変化はない。土原学園を五感で堪能しつつ、余力で発せられたふやけた返事。

 言われたオレは、少し冷えた感触を胸に覚えた。


「そんなことないし」

「いや他の奴は友だち同士、どこ行くとか決めてただろ。お前、誰とも相談してなかったよな」


 絶対に違うと否定すべきだ。でも力みすぎると、かえって肯定した風になる。だから変わらず、田村の方を向かない。

 向いてやらない。


「……だとして、オレを誘う理由にならないだろ」

「まあな。なんていうか、かわいそうだったから? 武士の情けみたいな」


 そこまでか。

 中学時代を振り返ってみる。たしかに親友と呼べるような相手はいない。だけどのけ者にされたりもしなかった。

 こっそり学校へ持ってきたマンガを貸したり、携帯ゲーム機のソフトを貸したり。


「そう言や、なんで一度もクラス会に来なかったんだよ。たまにでも参加してたら、そこまでならなかったのに」


 どう言えば正当性を証明できるか。しかも田村の見解を、頭ごなしには否定しないよう。

 言葉を探す間に、奴は少し話題を変えた。オレには耳慣れない話で、思わず振り向く。


「クラス会?」

「ほらほとんど毎月、カラオケとかハンバーガーとか、焼き肉とか」

「そんなのやってたのか――」

「あっ」


 田村は目を逸らし、反対に伸びる道路の行く先を眺めた。珍しい車が走ってるわけでなく、土原学園以外は普通の住宅ばかりが並ぶ風景を。


「どうやって連絡取り合ってたんだ」

「いや、連絡っていうか。教室の後ろの掲示板に紙貼って、名前書き込むっていう」

「ああ、あれか」


 自分の声から力の抜けていくのが分かる。田村も横目に土原学園を覗くだけで、こちらへ向こうとしない。

 起案者を聞くと、クラスでいちばん賑やかだった女子グループ。


 たくさんの名前が書かれた紙を見てわけも分からず、オレも名前を書き込んだことがある。

 しかしあいつらなら無視するだろうと納得がいった。


「彼女作っちゃえば勝ちだって」


 などとほざき、田村は逃げた。今日は学園までの下見が目的で、それは果たされたのだから問題ないが。


 彼女ができれば勝ち。

 いや、そうだ。土原学園への入学を志したのは、そのためだ。

 共学になったからと、すぐに大量の男子生徒が集まりはしない。最初の一年か二年は様子見で、ああ普通に男子も通うようになったんだな、と周囲の認識が進んでから。


 でなければ気恥ずかしいのが普通だし、オレもそうだった。

 しかし「だから彼女を選び放題、作り放題なんだろ」と啓示が降りた。その恩に免じて、クラス会の存在を教えなかった神を許してやった。


 特にやることもなく、バスに乗ってばあちゃんの家へ帰ることにした。

 土原学園は間違いなく天国だが、家族と住む家から遠いという難点がある。


 それならばあちゃんの面倒をみてよ、と親戚の伯母さんに頼まれた。面倒と言ったって、たまの力仕事を手伝うとか、毎晩の薬を飲んだか管理するとか。

 じいちゃんが亡くなって、ばあちゃんはぼんやりする時間が増えたらしい。


 当たり前だが、来る時と反対向きにバスは走る。二十分くらいの道のりを、来る時と同じに歩道側の席に座った。

 ぼんやり景色を眺めていたら、ふと懐かしい森が目に映る。

 タク兄と遊んだ、あの神社のある森だ。六歳まで住んだ町へ、オレは九年ぶりに戻ってきた。


 引っ越しのあと両親は、タク兄に会いに行くかと言ってくれた。たしか、この神社にも。

 でもタク兄はいなかった。その日いたベーブレ仲間に連絡先を渡したけど、電話も手紙も来なかった。


 住所どころかフルネームさえ知らない相手だ、そう何度もは来れない。それでもまた行こうと言ってもらったが、忙しい両親の次の機会を待つうちに、オレもタク兄の記憶を薄れさせた。


 もう、会いたいとは思わない。願っても無理だから。

 今のオレに大切なのは、可愛い彼女を作って楽しい高校生活を送ること。神社から近いバス停を見送り、降りてみようかなんて考えもしなかった。

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