第54話 エピローグ


 どの位、時間が経ったのだろう。周りの人も気にならないままに、泣き腫らした顔を起こすと坂道を見た。何も変わっていない風景がそこにあった。


 家に帰ろう。もう何もない家だけど・・。起き上がり、思い足を引き摺りながら、家に戻ると、


「ただいま」


 今となっては意味のない言葉を言いながら、玄関を上がり、手も洗わないままに、テーブルのそばの椅子に座った。




 淳、もう三週間も会社を休んでいる。

私は、あの女性(ひと)が、事故で亡くなったと、会社通達のメールで知ってから、連絡を取るべきか考えていた。


 母は、何も言わずいつものように自分に接していてくれる。セキュリティからの連絡は、その日に来ているはずだと思うと、娘の心を思っての事と一人考えていた。




 もう、奈緒もいない、春奈もいない・・。会社に行く必要もない。生きる必要もない。


 妻、奈緒の死と春奈を手放したショックは、あまりに大きく、すべてに対してやる気を失わせていた。




 数日後、息子と連絡の取れない母親が心配して自宅に来た。


「うわっ、淳。いるの」


 耐えられない異臭と部屋の汚れに、足元を注意しながらダイニングに行くと、窓も開けずに締め切った部屋の中で、テーブルに俯せにしている姿が有った。


「淳なの」


ドアの入口に有るスイッチを入れると、部屋の中が明るくなった。


「淳」


 可愛い大切な息子が、喪服のままにテーブルの側の椅子に座った体をようやく起こした。


「お母さん」


目の焦点が定まらないままに、またテーブルにうつ伏した。




 これは、ひどいわ。

心の中でそう思うと途中のコンビニで買って来た冷たいミネラルウォーターをテーブルに置いて


「淳、大丈夫なの」


 テーブルに俯せにしている息子の肩を優しく触ると、何日も着ている喪服が、じっとりとしていた。

さっきテーブルに置いたミネラルウォーターを引き寄せると


「淳、取りあえず、これを少し口に含んで洗面所でうがいしなさい。洋服も全部脱いで。まだ、横になりたいなら新しい下着とパジャマでベッドに行きなさい」


 息子の哀れな姿を、とにかく生かそうと、意図的に元気な声で言うと、息子は、テーブルにうつ伏したまま、ボトルを引き寄せると、少し口に含んだ。


 冷たい水が、口の中に広がる。目が覚める思いで、椅子から起き上がると、バスルームの脇の洗面所に行った。




 数日間の母親の献身的な努力で、何とか、最低限の生活を取り戻すと、落ち込んだままの息子を励ますように


「淳、いつまでも落ち込んでいると奈緒子さんが悲しみます。仕事に行きなさい。そのだらしない姿で、四九日を迎える気ですか。

 奈緒子さんが悲しみますよ。天国に行く為には四九日の法要をきちんとしなければいけません。

 四九日は、亡くなった人が、最後に天国に行くか、それとも地獄に行くかの最後の門です。奈緒子さんが地獄に行って良いのですか」


 奈緒子が地獄。簡単な言葉だったが、まだ四九日がある。天国へたどり着くためには、最後の神の面接が待っている。


 それが四九日だ。回らない頭で、子供の頃、教えて貰った知識をよみがえらせると、奈緒子は天国に行くんだ。そう思うと、少しだけ、頭が動き始めた。





「瞳さん、応接に来なさい」


 食事後、二階の自分の部屋に戻ろうとした時、母が声をかけた。心の落ち込みに気をかけての事か。と思いながら、応接間に行くと


「瞳さん、山之内さんの奥様がなくなって、四九日の法要も終わりました。あの可愛く美しい奥様も天国に行かれたでしょう」


何を言っているのか、理解できない頭で、母の美しい顔を見ていると


「瞳さん、今でもあなたは、山之内さんを夫として迎える気持ちは、残っているのですか」


 先週から淳は、出社した。廊下で顔を会わせても、何も変えない表情に、まだ、ショックから立ち直っていないんだ。


 そう思うと少しだけ笑顔で接しながら、声も掛けないでいた。だが、気高く周りに接する姿を見ていると、心の中でかつての思いが激しく揺れた。


 じっと後姿を見ながら、今は、そっとしておこうと思っていた。それがいつまでなのかは、自分自身分からないままに。


 いきなりの言葉だった。母の顔を見られずにうつむき加減で、頭を縦に何度か振ると、少しの時間の後、顔を上げた。 


「お父様も瞳さんを心配しています。もし、瞳さんの心が、山之内さんにあるなら、支えるべきは、あなたです」


 母の目が、自分の心の奥底にあるものを見つめられているような気がした。


「瞳さんが、支えても立ち直れないようならば、あの男はあきらめなさい。それだけの器であっただけの事。しかし、あなたの気持ちに応えられる強い心があるならば、竹宮家に迎える事を考えましょう」


 迎える事を考える。意味が分からない。という顔をしていると


「竹宮家に入るということは、葉月家の一門として二〇社のオーナーになることです。その器量が、まだ残っているのか、あの人が前のような強い心で、一門を牽いていけるのか、判断する必要があるということです」


 母の言った意味を理解した瞳は、今度はしっかりとした目で母を見つめると


「分かりました」



淳、私は今あなたを迎えに行く。待っていて。



―――――


最後までお読み頂いた読者の皆様。本当にありがとうございました。


 田園都市線のホームで始まった山之内淳と一ツ橋奈緒子の出会いは、箱根の旅行がきっかけで二人の関係が大きく変わりました。

 その後竹内瞳が関係して話が膨らんで行きました。でも最後は。

こんな終わらせ方で良いか、悩みましたが、あくまで物語として受け取って頂けると幸いです。


ありがとうございました。

他の作品や次作品以降もお読み頂ければ幸いです。


宜しくお願い致します。

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地下鉄ホームで知った君が僕と結婚するまで(旧題:恋の始まりは電車の中で) @kanako_01

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