第53話 かげろうの中に


「瞳さん、山之内さんとは」

「まだ、何も」

「お父様が、瞳も今年二八。そろそろはっきりした方が良いと言っていました」


 彼に考えてほしいと言ってから、もう半年が経っていた。四月の声を聞き、爽やかな風が頬に触れる季節になっていた。

 壁に掛かるタペストリーを見ながら時間が解決してくれると思っていた。


「淳、もうそろそろ・・」


瞳は、淳と二人で昼食を取りながら言うと

「……」


何も返事をしない淳に

「淳、子供出来た」

「えっ。…」

「もう三か月」

「瞳、うそだろ」


その言葉に下を向きながら

「淳は、良かったとかうれしいとか言ってくれないんだ」


寂しそうに眼の縁に涙を溜めて言う瞳に

「ごめん、でも…」


自分に覚えがない僕は、目の前に座る女性の言葉が理解出来ないでいた。

「淳……」


何も言わない目の前にいる男性(ひと)に

「私、どうしていいか分からない……。淳しか見えない。他の男性(ひと)は見えない。淳。お願い」


すがる様に恋い焦がれる様に言う瞳に淳は、言葉が見つからなかった。


六月も過ぎ、季節が夏の装いをまとい始めた時、

「淳、今日、馬事公苑と並木通りでお祭りがある。行かない」

「いいよ」


 奈緒の入れてくれたコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

去年の秋に理解出来ないままにシステム部長に抜擢され、社内のシステム化、コスト改善、効率化を積極的に進めた淳は、古参の役員に疎まれながらも強引に数字を出した結果として、春の取締役会と株主総会を経て三〇にして執行役員までなっていた。

たった半年の出来事だ。


 この事は、瞳が更に淳を慕う結果となり、彼女の父親が将来の自分の跡取りとしての器を感じることとなった。淳自身は、気づかないことだったが。


 そして奈緒は、そんな昇進を興味もないままに、ただ彼の愛だけを純粋に信じて過ごして来た。


「淳、先に行っているね。戸締り任せたわよ」

「分かっている。それより気を付けて。春奈、最近何でも手を出すから」

「うん、気をつける」


 そう言うと奈緒は、春奈をバギーに乗せて桜のマンションから農大の脇の道を歩いて馬事公苑方向に歩いていた。


 新聞を読み終えた僕は、壁に掛かる時計を見るともう奈緒と春奈が出てから一〇分だ。急いで行けば、信号で追いつくな。

 そう考えると、簡単に着替えてマンションを出た。馬事公苑は急いで歩けば五分も掛からない。途中で追いつくと思うと急い

 坂道を軽く昇り桜二丁目の信号を左に曲がり走っていると反対の歩道に春奈をバギーに乗せた奈緒が歩いていた。


 なぜ右側の歩道にと思いながら世田谷通りの信号までには追いつくなと思いながら走った。T字路の信号の側まで来た時、ほとんど反対の道路を向かいにして横に並んだ奈緒に

「奈緒、春奈」


横断歩道の横で声を掛けた。

「あっ、淳」

 彼の声にふっと振り返ると横断歩道の信号の青が点滅し始めた。奈緒はまだ渡れると思い、そのまま春奈を乗せたバギーを横断に向かわせた。


その時、T字路を右からまだ正面が青信号と見た車が勢いを緩めずに左折して来た。


 春奈を乗せたバギーを押して横断歩道を渡ろうとした奈緒は、生まれて初めて知る右側からの強烈な力を感じ空中に自分の体が浮くと頭からアスファルトに落ちた。


そしてそのまま意識を失った。


「奈緒」


 僕は、車に飛ばされた奈緒に思い切り駆け寄り、体を抱きあげようとした時、頭の後ろから、恐ろしい程に鮮やかな血が流れ出て来た。


「奈緒、奈緒。大丈夫だから。大丈夫だから」


 体を起こすのを止めて、優しく手を握りながら、急いで春奈の乗ったバギーを探すと歩道と車道の縁石に止まっていた。奇跡的に倒れていない。ただ鳴き声が聞こえる。


「奈緒、ちょっと待って」


 急いでバギーの側に行くと春奈が、鳴き声を思い切り出していた。信じられない事にけがはしていない。春奈をバギーから降ろし、抱き上げるとすぐに奈緒の側に行った。


「奈緒、春奈は大丈夫だった」


 意識のない妻に必死に語り掛けながら目が開くのを待った。

いつの間にか、周りは人だかりいなっていた。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる誰か読んでくれたのかそう思うと目が閉じたままになっている奈緒の顔を見た。


 ここはどこ明るい光の中で何人もの人がいる様な気がする。何も見えない。ゆっくりと目を開けると彼の姿が有った。


「淳」

「奈緒、気が付いた」


 彼の声が聞こえた。一瞬はっきりと聞こえたその声は、海の中で聞こえる声の様に遠くに過ぎ去って行く。やがて頭の中に走馬灯の様に甦って来た。


 田園都市線で、彼が譲ってくれた事。初めて彼が声を掛けてくれた。何回も重ねた表参道のデート。西伊豆で初めて体を合わせた事。全ての時間が走馬灯の様に流れた。


 やがてそれが段々薄くなってくると、静かに意識が消えていった。一ツ橋奈緒子の二六才の初めての事だった。


「奈緒。奈緒。目を開けて。だめだ。行っちゃあだめだ」


 ベッドのそばで思いきり泣き叫ぶ僕は、目の前に有った光る物を見た。それを手に取ると一気に自分の右の首筋に当てた。


 周りの人が、一瞬、そして何も言えないままにスローモーションの様に時間が流れた。思い切り、右手の力で振り下ろそうと、そして自分自身を奈緒と同じ時間、世界に持って行こうとした。それで目の前にある現実を受入れとした時だった。


 いきなり声が聞こえた。奈緒の声に聞こえた。その声に我に振り返ると奈緒と自分の大切な命が泣いていた。


「暑いな」


 奈緒の初七日が終わり、自分のマンションに一人で歩いていた。もう経堂の家に行くこともない。

 そう思いながら長く続くアスファルトを見ながら歩いた。奈緒の実家から自分のマンションまで歩いても一〇分と掛からない。


 奈緒の子供は、両親が引き取ることになった。初め強く自分が育てると言ったが、奈緒の両親が、奈緒子の生まれ変わりと思い、育てさせてくださいと懇願された。抗い様のない心に僕は、ひきさがるしかなか無かった。

 

 強烈に差す日差しに空を見上げると突き刺すような光が注いだ。七月も目の前。梅雨の隙間に見せる晴れ間が、今までの記憶を焼き尽くすように注いでいた。


 僕は、それを避ける様に前を向くと、緩やかな坂道にゆっくりと歩く、忘れるはずのない後ろ姿が、長いアスファルトのかげろうの中に緩やかに立ち上っていた。


「えっ」


その後姿の女性がこちらを振り向くと

「淳。ありがとう」


 そう言って、右手を振りながら、歩いて行こうとする奈緒の姿が有った。じっとこちらを見ていた。

 やがてたまらなく可愛く美しい姿がかげろうの中に緩やかに消えていく。


 必死に走りながら、手を伸ばしながらも何も近づけない。思いきり涙が溢れ出て来た。

 膝が崩れ落ち、ただ涙だけが焼き付いたアスファルトにそのまま吸い込まれた。



―――――


何という事が。何とも言えない。

次回エピローグです。


次回をお楽しみに


面白そうとか、次も読みたいなと思いましたら、ぜひご評価頂けると投稿意欲が沸きます。

感想や、誤字脱字のご指摘待っています。

宜しくお願いします。


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