第2話 無限スプーン
ある海洋学者の手記。
*
海面が上昇し続けている。この二年、観測している。
憂うべき事態だ。しかし不幸にも、この事実を知るのはこの国に……この島国に……おいて私一人。そしてその私ですら対処の仕方が分からない。
暗い気持ちで港町の酒場に来た。あまり柄のいい酒場じゃないが……全員が全員自分の騒ぎに夢中な分、お互いがお互いに、無関心だ。
だがその日は違った。私に絡んでくる男がいた。
「おっ、何だここにふさわしくない奴がいるなぁー」
男は、当たり前だが酒臭かった。酒場に酒臭くない男なんていない。だが彼はその中でも「ダントツに」酒臭かった。頭に妙なバンダナを巻いている。
「おおい、チェン。見ろよこいつ傑作だ」
チェン、と呼ばれた男が来る。寡黙そうな、東洋人らしい顔。しかしニヤニヤ笑っている。
「こんな青っ白い奴がこんなところにいたらケツの毛までむしられるぜ」
男は下卑た笑いを浮かべながら近寄ってきて、私のいるテーブルに座った。
「なぁ、お前ひとつ賭けないか。俺は金がない。お前は『知りたい』。どうだ?」
何を言っているのか、最初は分からなかった。だがすぐに思い当たった。
「海面のことを知ってるのか……!」
私の言葉に、男はシーっと自らの唇に人差し指を当てた。
「大きな声出すなよ。特別な話だ。いいか、このノートには秘密が書かれている」
男は一冊のノートを、懐から……ボロ雑巾みたいな服の懐から……出した。そのノートは妙に小綺麗で、とてもこんな男が持っていいものじゃなかった。貴族か、金持ちか、要するにもっと社会的立場のある人間が、仕事上で記帳する時に使うようなノートだ。実際、革の装丁は本当に見事で、私は思わず表紙を撫でた。しかし男がすぐに取り上げた。
「おーっと。お触りはそこまでだ。俺と賭けるか? 賭けないか?」
私は黙った。しかしそれは肯定の意味の沈黙だった。この男がここ数年の海面上昇の秘密を知っているなら……それに、こんな酒場の額くらいなら大したことはないし……賭ける価値はあった。男がポケットからコインを取り出した。
「魔法のコインだ」
男は笑った。
「こいつの決定には神さえも従う。何せ神を出し抜いたとある悪魔が作ったコインだからな。絶対の決定だ。イエスかノーか、それで決める。お前は? 『表』? 『裏』? 『表』にノーなら『裏』、『裏』にノーなら『表』。そんな具合だ」
「『表』にイエス」
賭け事だ。肯定的に、積極的に行きたい。
「トスするのか?」
私の問いに男は汚い歯を見せ笑った。
「そうだ。お前やるか?」
男はコインを渡してきた。
「汚いコインだ。酒代にもならない。俺は『表』にノー。つまり『裏』だ」
言う通り、汚いコインだった。歴史的な価値があるようにも見えない。私はコインを指で弾き、真上に飛ばした。
手の甲で受け止める。掌を被せる。
「さぁて」
男は舌舐めずりをした。
「開けてくれ」
私は掌を退けた。果たして「表」だった。
「ほほぉ! お前の勝ちだ!」
男は万歳した。
「これはやる。お前のノートだ」
男の差し出したノートがテーブルの表を擦った。
「俺は中身をよく読んでいない。だから何が書かれても驚くな」
私は噛み付いた。
「僕の知りたいことが書いてあるんじゃないのか?」
しかし男はへらへらと。
「あるさ。あるとも。あるに決まってる」
ノートに指を置く男。
「読んでみろ。きっと分かる」
*
家に帰った私は、男に言われたことが馬鹿げている……実際酒場の戯言なので本当に付き合う価値はなかったが……と思いながらもノートを開いた。中に書かれている内容を読む。俄には信じ難いことのように思えた。一部を記す。
以下、「私」ことノートの記載者の手記。
*
「賭けようぜ」
男が笑った。首筋に妙なタトゥーのある男。頭に変な布切れを巻いている男だった。
私はそんな男とある賭けに興じていた。負けた方が今持っているものの中で一番高価なものを差し出す。私のポケットにはくじの引換券があった。当選券で、賞金は金貨二枚。高額当選者は金貨二百枚だが、まぁ、儲けが出るだけ当たりくじの方だ。私はその券を賭ける気でいた。男も金が欲しいようだった。
「悪魔のコインだ。決定は絶対。『表』に対してイエスかノーか。『裏』に対してイエスかノーか」
「『表』にノー。つまり『裏』」
「じゃ俺は『裏』にノー。つまり『表』だ」
男が笑う。コイントス。手の甲でキャッチ。
果たしてコインは裏だった。私は勝ち取った。
「約束通り、君が持っているものの中で一番高価なものをもらおうか」
すると男は不思議な箱を取り出した。それはそう、例えるなら虫籠で、蓋が格子状になっている箱だった。男はそこから何かを取り出した。それは何の変哲もない、ただのスプーンだった。
「スプーン?」
男は笑う。
「違う。魔法のスプーンだ」
「魔法のスプーン」
とりあえず言葉を繰り返していると、男はスプーンを、近くにあったグラスの中に突っ込んだ。そして、その中にある酒を掬い出した。スプーンを傾け、グラスの中に酒を零す。
最初の内は何ということはない。ただスプーンから酒が落ちているだけだった。しかしすぐ異変に気づいた。
なくならないのである。スプーンから延々と酒が流れ続ける。
私が目を見張っていると、男は笑った。
「分かるな?」
私は頷く。
「掬う部分に触れたものが増え続ける、魔法のスプーン、か」
「そうだ。そのとぉり」
男はスプーンを箱にしまってから渡してきた。
「使い方に気をつけろ。これはお前のものだ」
私は男からスプーンをもらった。その日は、それだけ。
・
魔法のスプーンに金を乗せたらどうなるか?
至極真っ当な疑問だった。掬う部分に金を乗せたらそれはあの日男が無限に酒を増やしたように……次から次に……増やすことができるのではないか。私はポケットから金貨を取り出した。この近隣諸国で一番価値のある……つまり高価な……金貨だ。金貨は銀貨十枚、銀貨は銅貨百枚の価値がある。
この金貨は私の月収、金貨十枚の内の一枚だった。私は月収の十分の一を賭けようとしていた。これが例えば妻帯者なら、きっと奥方からお𠮟りを受けるくらいの額だ。しかし私に妻はいない。
スプーンを左手に持つ。右手には金貨。私はゆっくりとそれを掬う部分に置く……。
・
……気づけば翌朝だった。何があったと考えるのよりも先に周りの異変に気付いた。視界が妙に明るい……!
床一面に金貨があった。いや床一面どころじゃない。溢れ出た金貨は廊下にも……そしておそらく家中に……ばら撒かれていた。私は興奮して立ち上がった!
スプーンを探す。そして見つける。今まさにこの瞬間! 金貨はスプーンの上で増え続けていた。スプーンの上から溢れ出る、溢れ出る、溢れ出る、金貨に金貨に金貨に金貨! しかしこれ以上増幅されては家が金貨で爆発する。私はスプーンを傾け、金貨を床に落とした。途端に金貨の増殖は止まった。
これだけ! これだけ金があれば私は生涯暮らしに困らない! こんな中古の汚い小屋も売り払って、もっと贅沢な、豪華な屋敷に住める! ワクワクした。ワクワクした。
とにかくこの金貨をかき集めねば。回収には丸一日かかった……。
・
「くじを当てたらしいぜ」
「俺は山に眠っていた秘宝を見つけたんだって聞いた」
「祖父の遺産を相続したんだろ?」
街中私の噂で持ちきりだった。そりゃそうだ。一夜にして大金持ち! 私は羽振りよく金を使った。美女を侍らせ、美酒を飲み、美術品を買い漁った。豪邸を建てそこに住まい、かき集めた美女と美酒と美術品で、贅沢三昧をした。金はいくら使ってもあった。本当に、尽きる果てのない金だった。
「魔法のスプーンか! はっは! あの男はいいものをくれた!」
しかし思えば、私はこの時気づくべきだったのだ。もっと考慮すべきだった。
男がこのスプーンを手放した本当の理由を。
このスプーンの本当の恐ろしさを。
・
「あいつ銀行に盗みに入ったらしいぜ」
「ジェフの妻を強姦したって聞いた」
「行商人を殺したって……」
妙な噂を聞くようになった。私についてだ。どれも身に覚えのないもので、私は最初、一夜にして金持ちになった私への僻みだと思って、まともに取り合わなかった。しかし異変はこの時から始まっていた。
まず、隣国で指名手配された。
政府から通達が来たのだ。私の身柄を引き渡すよう隣国から要求があった。しかし当局は証拠不十分であるとして棄却した。貴殿に何か心当たりはあるか。
何もなかった。私はずっとこのお屋敷で美女と戯れごとに夢中になっていたし、とても隣国に行く時間などなかった……しかし、妙な覚えはあった。
夢を見るのである。日中、あるいは夜、私が寝落ちると必ず……そして私はこの頃結構な頻度で眠りに落ちていた……夢を見る。
その夢の中で私は、銀行に盗みに入り、ジェフの妻を欲望のままに犯し、道行く行商人を殺して珍品を奪ったりしていた。隣国での犯罪はそんな夢の中で見た光景のひとつだった。貴族の娘を暴行する夢だ。
奇妙だった。夢で見たことが現実になる。何か不思議な兆しでも……? と思い、国内随一の占い師に占わせたりもした。ほとんど干物みたいな老女は震える声で、「これはいかん! これはいかん!」と叫ぶとその場で喉を掻きむしり絶命した。近くにいた美女たちが悲鳴を上げた。
老女の死体は訳を話して政府に引き取ってもらい、公営の墓場に移してもらった。しかし私の疑問は尽きない。
「何が『いかん』のだ? 私に何が起きている?」
しかし私はこの時すっかり忘れていた。
あの男のことを。
首に妙なタトゥーのある男のことを。
ある日、私の家のドアがノックされた。おかしい。門には守衛がいる。連続する奇妙な事態を受け私が雇ったのだ。その守衛が仕事をせずに……つまり私との会合の約束を確認することなしに……通すなどあり得ない。私はこの日誰とも約束をしていなかった。だからおかしいと思って戸を開けた。
戸板が動いた正にその瞬間! 私は驚愕の彼方に弾き飛ばされた。
目の前にいたのは私だったからである! 私だ! 私がいたのだ。
しかしその「私」はすぐさま、手にしていた棍棒で私を殴りつけた。まな板の上の魚みたいに打ちのめされた私はそのまま意識を失った。それからどうなったのかは覚えていない。
・
目が覚めると、橋の下、一際暗い場所に私はいた。
服装はボロ雑巾そのもの。豪邸で私が着ていた煌びやかな服とは程遠い。何があったか確認しようとしたが頭痛がひどかった。殴られた額に手をやる。腫れていた。血も出ている。
意識を失っている間も、妙な夢を見た。
私が私の屋敷で侍らせていた美女に散々な暴力を振るう夢である。
それは何だか心地よい夢のようでもあり、しかしそんな夢を見た自分がおぞましい気もして不思議な気持ちになった。
私はずりずりと体を引きずると……そういう風にして歩くのがふさわしいような恰好だった……屋敷へと向かった。守衛と顔を合わせる。
「だ、旦那様、先程も……」
「先程?」
「ええ、つい先刻、しかもその前にもまた旦那様がいらっしゃって……まるで旦那様が……い、いったい何をしていらっしゃるんです? あっしをからかって……?」
守衛は混乱しているようだった。
私は守衛をからかってなどいない。からかう価値のない人間だしそんなことをしても私は得しない。馬鹿なことを言ってないで通せ、と守衛に言いつけ、私は門をくぐった。そうして家の中に入り、驚愕した。
裸で縛り上げられた美女。
破壊された酒樽。
見るも無残な姿になった美術品。
屋敷の床中に散らばっていた。裸の美女は数名しかいなかったが……今日は数名しかいない日だった……しかし猿轡を解いてやると皆怯えた顔で私を見た。
「な、何をなさったのです!」
美女の内の一人が叫んだ。
「あなた様がたくさん!」
私がたくさん?
何を言っているのか分からなかった。しかし、すぐに思い当たることがあった。
魔法のスプーン……。
私はいつか謎の男からもらったあのスプーンのことを思いだした。屋敷の奥、物置にしまってある。虫籠のような箱の中に入れて、その箱を倉庫の奥に……。
私は駆け出すとそのスプーンをしまってある場所に向かった。屋敷の玄関広間の脇、階段下にある小さな扉。それが倉庫への入り口だった。
果たしてスプーンはそこにあった。倉庫の片隅、薄暗がりに。そして私にはある仮説があった。もしかして、もしかして。
スプーンを持って広間へ……怯えた美女がいる広間へ……戻った。ポケットから金貨を取り出す。見飽きるほど見た金貨だ。
「おい、お前」
適当な美女を一人捕まえる。
「この金貨を持て。そしてこのスプーンの上に置いてみろ」
美女は訝しい顔をした。しかし私の指示だ。それも造作もないこと。美女は私の手から金貨を受け取ると、そっと、スプーンの上に置いた。異変は直後に起きた。
美女がひきつけを起こしたかのように震えはじめたのだ。そしてその後、すぐ!
大量の金貨がスプーンの上に溢れ出したのと同時に、震える裸の美女が次々に姿を現した。美女の陰から美女が生まれ、そしてその美女の陰からまた美女が生まれた。ひきつけを起こした美女はそのままおかしくなったゼンマイのおもちゃのように震えて床にどうと倒れ込んだ。途端に金貨も女もスプーンから離れ、増殖が止まった。あまりのおぞましさに私はスプーンを離した。床に転がったそれを、しかし私は見る暇がなかった。
「ご主人様」
大量の裸の美女が……それも同じ美女が……私の前に跪く。私は震える。あまりの恐ろしさに。
近くにいた別の美女も何が起きているのか分からなかったようだ。私にも分からなかった。だが分かったことがあった。
このままじゃいけない。人間が人間を、愛の結晶ではなく……神の御恵みではなく作り出した。これは禁忌だ。私はタブーを犯している!
消す必要があった。始末する必要があった。私は私の犯した禁忌を、この手で終わらせる必要があるように感じた。私は震える腕で、手近にあった小さな銅像を掴むと数ある美女の内の一人に叩きつけた。私の暴力によって、増幅した美女の内の一人の命が絶たれた。後には灰燼が残った。
増殖した裸の美女たちが悲鳴を上げる。しかし私は構わなかった。銅像を掴んだままやったらめったらに振り回し、とにかく目の前の美女を叩きのめし続けた。殴り続けた。撲殺し続けた……やがて、増えた美女も最後の一人になった時。私は思った。
こいつを殺したらどうなるのだろうか?
今までどの増殖美女も頭から血を流さなかった。ただの灰燼と化していた。この女も殴れば灰燼に……?
しかしそんな仮説を私は検討することはできなかった。
後頭部を強打されたからである。視界が暗転し、私はそのまま床に叩きつけられた。
霞んでいく視界の片隅。
棍棒を持った私が一人、立ち尽くしていた。
・
今、私は獄中でこの手記を記すに当たって、ある警告をせずにはいられない。それはあのスプーンについてだ。
獄中の図書室で調べた。古い文献を。それも呪いの宝物に関する書籍を。
あの魔法のスプーンは「無限スプーン」と呼ばれる呪物だ。掬う部分に触れたものを、例えそれが間接的接触であったとしても、二番目までの接触物を無制限に……本当に無制限に……増やし続ける呪いの秘宝だったのだ。
私はあの晩……あの金貨を増やした晩……間違いなく金貨を通じて間接的にあのスプーンの掬う部分に「触れた」。その瞬間、私はひきつけを起こし……あの美女に起きたことが私に起きたとするならばそうだ……壊れたおもちゃのように震えた。震える私の指が金貨を離した瞬間、スプーンは私との接点を失い、その直後、私の増殖は止まった。だが金貨は見事スプーンと一緒に床に着地し、その後も金貨だけを増やし続けた……。
増殖した私は各地で本能の赴くままの罪を犯し続けた。つまり銀行に盗みに入り、ジェフの妻を強姦し、行商人から殺害し、隣国で貴族の娘に暴行した。夢で見たあの光景はそっくりそのまま私の分身がした行為だったのだ!
そしてあの日、私の分身は私の顔で私の屋敷に入り、「本来の」私を殴り昏倒させてから橋の下に捨て、私のフリをして私の屋敷に再び舞い戻り、私の美女を私の美酒を私の美術品を、破壊し、踏みにじり、めちゃくちゃにして回った。その間にも「私」は何人も私の屋敷に訪れた。守衛が混乱していたのはそれが理由だ。何人もの「私」が私の屋敷にやってきたのだから!
広い屋敷だ。全部ぶち壊すのに時間がかかったのだろう。
その間に「本来の」私が戻ってきた。裸のまま縛り上げられた美女を解放し、物置から無限スプーンを持ち出し、美女の内の一人を使って実験し、そしてその結果に慄き副産物を殺して回り……気づけば「私」に再び殴りつけられ意識を失った。「本来の」私が目を覚ました時、屋敷にあったものは何もかもが破壊され……あの美女たちでさえ無残に殺されて……そこにあった。騒ぎを聞きつけた政府の人間が私の屋敷を捜索し、全て私の犯行に違いないと判断し……私しか生き残っていなかったのだから当然そういう理屈になる……あえなく私は御用となった。だからこうして獄中にいる。
あの無限スプーンがどうなったのかは、少ししてから分かった。
ある日、今巷を騒がせているあの事件が起こった。一級犯罪者脱獄事件である。
私が檻の中で絶望していたある日。牢獄の奥、第一級犯罪者が収容されている施設で暴動があった。どうやら誰かが外から手引きしたらしい。一部の犯罪者たちが逃げ出した。そしてその逃げ出した囚人が近くの囚人たちを解放し、大量の一級犯罪者たちが獄中に溢れかえった。彼らは刑務官を暴行し、縛り上げ、やりたい放題にやっていた。
あの男はそんな騒ぎに乗じて私の牢屋の前に来た。
「おう、お前は」
男は嬉しそうだった。いやらしい、最悪の、下卑た笑いを顔に貼り付けて、私の檻の前に来た。
「その様子じゃ無限スプーン、使いこなせなかったみたいだな」
あのタトゥーの男だった。頭に妙な布切れを巻いた。私に無限スプーンを渡してきたあの男だった。
「はっは。お前そのままスプーンに置いたな?」
ノンノンノン。男は隣国の貴族のような振る舞いで笑った。
「いいか、無限スプーンで何かを増やしたい時は、こうするんだ」
男は左掌で器を作ると、その上に金貨を……あの時賭けに使った汚い金貨を……ぽとっ、と落とした。それで私は自分の間抜けさに再び嫌気がさした。
「直接置いたらダメだ。落とすのが一番いい。間に何かを挟むことになるからだ。一番便利なのは『空気』だよな。間に『空気』を挟むといい……。あの時言わなかったっけ? 使い方に気をつけろ、って」
「あのスプーンはどうなった?」
私は眉間を揉みながら訊ねた。それが私にできるせめてもの報いだった。あのスプーンを止めること。あのスプーンによる呪いを誰にも広めないこと。
しかし男は笑って肩をすくめた。
「さぁなぁ。この牢屋で聞いた話じゃ、最近、ある没落した大金持ちの財産が全部海に捨てられたらしいぜ。どれも散々な状態で使い物にならなかったそうだからな……」
「海に……?」
私は安心した。もしその「没落した大金持ち」とやらが私なら。そうか。海なら。海なら。
無限スプーンは常に空気と接触し続けている。だから無限に「空気を生み出している」。しかし空気は目に見えないし害もない。そして空気は複数の物質で構成されているものだから空気中にいる生き物とも間接的に触れていることにならない。だから私たちの目には何の変哲もないただのスプーンに見える。しかし男はスプーンが空気を生み出し続けることを知っていて、あんな虫籠みたいな箱にしまっておいたのだ。箱が空気で溢れないように! もしスプーンが異質な空気に触れた時、その空気を増やし続けてしまわないように!
だがそうだ。海なら。
空気と同様だ。海の水が増え続ける分には何も困らない。海は広い。あの小さなスプーンから溢れる水で海をいっぱいにしようと思ったら、何千年も何億年もかかる、だろう。
今、あの無限スプーンは海底に沈んでいる。海の水も様々な物質で構成されているものだ。きっと海に入った人間や海の生き物が無限に増え続けることもない。安全になった。安全になった。
しかし私は、警告しておく。
仮に海底でスプーンを見つけても決して触れてはいけない。それはあなたを魔の淵へと沈めていく、最悪の呪物だから。
*
ひどい事態だ! ひどい事態だ!
手記の中の「私」は「金貨は銀貨十枚分、銀貨は銅貨百枚分」と記していた! それは我が国、及びこの海洋地域一帯の通貨価値と合致する。つまり手記中の「私」の国はおそらく海の向こうに広がる大陸の国、ないしは近隣島国のどこかであり、そして無限スプーンが捨てられた海とは、すなわち……。
「おい!」
手記を読んだ翌日の夜。私は再びあの港町の酒場に行き、あの妙なバンダナの男を見つけた。男は私と目が合うなりニヤッと笑った。
「今すぐスプーンを……あのスプーンを……」
しかし人混みが男をかき消した。気づけば私は雑踏の中に一人、立ち尽くしていた。
海に沈めれば安心? とんでもない!
最近の海面上昇の理由は間違いなくあの手記にあったスプーンだ! 無限スプーンは海の底で「海の水を増やし続けている」のだ!
「それは災難だったなぁ」
どこかであの男の声がした。私は雑踏の中を見渡したが、どこにも彼の姿は見当たらなかった。
了
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