第9話
沙友里が「部屋から出られない女の子」の話を書きあげたのは、夏休みが終わって二週間後のことだった。書き始めから数えると、およそ一か月かかったことになる。ノートのページは半分より少し多く使った。ごくごく、短い物語だ。
「終わった……、というか、終わらせた、というか……」
閉じたばかりのノートに、ぺちゃん、と額をつけて、沙友里は大きく息を吐いた。書き上げられたという喜びよりも、途中で投げ出さなかったという安堵の方が勝った。
書いている途中で、何度も頭をよぎったのだ。「こんなことをして何になるんだろう」という思いが。そのたびに沙友里はボーダートークを開いた。
さゆ:私も、新しい世界をつくってみたい。
文学少女【公式】:あなたのつくる新しい世界、是非、読んでみたい。書いたら、読ませてください。
沙友里が小説を書くきっかけになった、このやりとりを何度も読み返して「新しい世界をつくってみたい、と言ったのは私自身なんだ」「このひとが読んでくれるのだ」と、自分で自分を励ましたのだ。
あれ以来、「文学少女【公式】」からの返事はないままだ。それでもなぜか、「このひとが読んでくれるのだ」という沙友里の中の思いは消えなかった。むしろ、いったいどうしたのだろう、と心配になるばかりだった。
「っていうか、本当にこれ、誰かに読ませていいものなのかな……」
なんとか完成はさせたものの、とても満足のいく内容ではない。文章も稚拙だし、設定も穴だらけで、きっと矛盾も生じているだろう。書き進めている間にも何度も読み返して、沙友里自身気がついていたのだけれど、それを正していたらきっとこの物語は一生書き上げられない、と思ったために目をつむることにしたのだ。けれど、他人は目をつむってくれないだろう。下手な小説だ、と笑われることも怖いけれど、それよりも、面白いものを期待してくれている相手を落胆させるだろうことが申し訳なかった。
「宮本くんとかね……」
まだ孝弘に読ませると決めたわけではないけれど、と心中で付け加えて、沙友里は机を離れた。ベッドの上に放り出してあったスマホを手にすると、いくつか通知が来ていた。
「ん? ……あ!」
通知の中に、「文学少女【公式】」の名前を見つけ、沙友里はパッと笑顔になった。なんというタイミングだろう。ちょうど今「お話を書き終えた」と伝えようと思っていたのだ。いそいそとトーク画面を開く。
「……え?」
沙友里は、「文学少女【公式】」から送られてきたメッセージに、目を見張った。それは、沙友里がこれまでにボーダートークでやり取りしたどんなメッセージよりも長いものだった。
文学少女【公式】:ずいぶん長い間お返事をしないでいて、ごめんなさい。あなたが小説を書いていることが、とてもとても嬉しいです。書き終えられるかどうかが不安だと言っていたけれど、きっと、大丈夫です。どれだけ時間がかかってもいいから、どうか、最後まで書いてくださいね。
実は今日は、あなたに謝らなければならないと思ってメッセージを送りました。とても長いメッセージになると思うけれど、読んでくれたら嬉しいです。
もう気がついているかもしれませんが、「文学少女」というアプリは、リリースされることがありません。そもそも、開発もされていません。
この「文学少女【公式】」というアカウントは、私が、お友だちが欲しくてつくったものなんです。
私は、生きている時間のほとんどを同じ部屋で過ごしていて、自由に出歩けない生活をしています。世の中がこんなふうになる、ずっとずっと前から。あなたが書いている小説の女の子と同じです。だから、どんなお話を書いているかを教えてくれたメッセージを読んだときは、とても驚きました。そして、出来上がったものを読みたいという気持ちがもっともっと膨らみました。
どうですか。書くことは、苦しいですか。楽しいですか。よかったら、それも是非教えてください。
外に出られない私が、心の支えにしてきたのは、本でした。前にも送ったように、本は、私にとって新しい世界を見せてくれるものです。本を開くとき、私はいつも新しい世界への扉を開くような気持ちになります。
でも、本は話しかけても返事をしてくれません。私はだんだん、返事をしてくれるお友だちがほしくなりました。でも、外に出られない私に同情して仲良くしてくれるような友だちはほしくない、という気持ちもありました。いろいろ、たくさん考えて、アプリの開発者を装うことにしました。それが「文学少女【公式】」です。チラシを置いてくれたのは、伯母が経営しているカフェです。
あのね、さゆさん。
お友だち登録をしてくれたのは、あなたひとりだけだったんです。
私は、さゆさんからメッセージをもらうのか、とてもとても嬉しくて、いつも楽しみにしていました。
開発中のアプリの公式アカウントだなんて嘘をついて本当にごめんなさい。もし私を許してくれるなら、これからもお友だちでいてくれませんか。そして、あなたの書いた小説を、読ませてくれませんか。
それが無理でも、どうか、小説は書き上げてくれませんか。あなたの書く「部屋から出られない女の子」の話は、きっと、誰かの心を励ますことでしょうから。
本当に、本当に、お友だち登録をしてくれて、ありがとう。
メッセージをすべて読んで、沙友里は、手が震えた。両目が熱くなった。
「わたし……、私の方こそっ……」
ありがとう、と言いたかった。「文学少女【公式】」に出会わなければ、沙友里は本を読む喜びを忘れたままだっただろうから。そして、小説を書く、という新しい挑戦も、しなかっただろうから。他にも、お礼を言いたいことはたくさんあった。
だけど、まずは。
沙友里は、長いメッセージをもう一度読んだ。そして、深呼吸をしてから、返事を書きこんだ。
さゆ:小説を、書き終わりました。あなたに、新しい世界への扉を、届けます。
文学少女【公式】 紺堂 カヤ @kaya-kon
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