第8話
宿題は全部済ませられたけれど、結局、小説は書き上げられないまま、短い夏休みが終わった。体感的な意味での「短い」ではない。実際、今年の夏休みは少し短かったのだ。教室をはじめとした校内での密集をなくすため、学年ごとに時間をずらす分散登校が行われたり、授業を減らして自宅からの通信授業で穴埋めをしたり、という状況がずっと続いている所為で、夏休みも短縮しなければ授業日数が足らないのである。
「文学少女【公式】」からは、返事がないままだった。もう一週間以上になる。こんなに長く返事が返ってこないことは初めてだった。返事が来ない間に、沙友里はどんな物語を書いているかという説明と、本当に書き終わるのかという不安を追加で書き送っていた。それに対しても、返答はない。
運営スタッフが雲隠れしたのだろうか、低予算のアプリ開発のように見えたし、と思ってはみたけれど、正直なところ、沙友里にとっては寂しさが大きかった。
二学期も相変わらずの分散登校が続くそうだ。だが、そもそも沙友里たち高校二年生は去年もほぼこんな状態だったために、通常の高校生活がどんなものなのかわからずにいる。いまさら何かと比べて不平を主張する気にもなれなかった。ただただ、行き場のない鬱憤が静かに蓄積してゆく。
「さーゆー! 久しぶりー!」
うさここと宇佐見翔子が派手なモーションで手を振る。その隣にくるくること水森玖瑠実がいて、少し遅れて後ろから田中梨都菜がやってくる。全員、白い不織布のマスクをしているけれど、笑顔であることはわかる。
「久しぶり! 元気だった?」
「まーねー。毎日ヒマで死にそーだったよぉ」
「だよねえ。プールにも行けないし、買い物にも行けないしぃ」
そうそう、と相槌を打ちながら沙友里は、本当に久しぶりに人と接する楽しさのようなものを噛みしめていた。
「さゆ、ありがとね、本のオススメ」
梨都菜が、こそっと沙友里に耳打ちしてきた。
「あ、うん、どうだった?」
「あのね、あれがいちばんよかった、絵画のやつ」
本当に沙友里にだけ聞こえるような声で梨都菜が言いつつ微笑んだので、沙友里はホッとして微笑み返すことができた。
その日いちにちは、友人らと久しぶりに顔を合わせ、宿題を提出し、簡単なオリエンテーションを受けただけで終了した。沙友里としては、なんだか肩透かしをくらった気持ちだった。
「またねー、さゆ!」
翔子が、帰り際も変わらず派手なモーションで手を振ってさっさと教室を出て行ったのを見送って、沙友里はのろのろと帰る支度をした。夏休みが終わってしまった、という幼稚な落胆とは明らかに違うやるせなさが、全身を覆っていた。
沙友里が書いている小説は、「部屋から出られない女の子」の話だ。女の子は、心身ともに健康なのに、母親の言いつけにより外を出歩くことができない。外には出てはダメ。悪いものがたくさんあるから。彼女にとっての外の世界は、両手を広げたくらいの大きさの窓から見える景色だけだ。
髪の長いお姫様の童話を引き合いに出すまでもなく、ありふれた話だと沙友里もわかっている。それでも、沙友里はこれを書こうと思った。今書くなら、これしかない、と。
小説の中で、女の子は言う。「外に悪いものがたくさんあるなら、私はそれと戦う力を身に着けてみせる。この家の中で。そしていつか必ず、自分の力で外に出る」と。
戦う力をどう身に着けるのか。今は、それが思い浮かばず、続きを書きあぐねている状態だ。
「……あの子は、私だ」
出かけられる場所は学校だけ。夏休みの間は図書館だけだった。でも、そうさせている状況にどう立ち向かって、どう戦ったらいいか、わからない。
ため息を飲み込んで、いつのまにかうつむいていた顔を上げると、教室にはもう沙友里しかいなかった。慌てて鞄のファスナーを閉め、席を立つ。と、教室のドアががらりと開いた。
「あ」
入ってきたのは宮本孝弘で、沙友里の顔を見ると気まずそうな表情をつくった。気まずいのは沙友里も同じだったけれど、何も言わずに無視をするような態度も感じが悪い。じゃあ、と挨拶なのか何なのかよくわからないことだけを口にして、教室を出ようとした。
「あのさ!」
足早にドアへ進む沙友里を、孝弘が呼び止めた。足だけを止めて振り返らない沙友里の背中に、孝弘が話しかける。
「この前、ごめんな。図書館で」
沙友里は黙って首を横に振った。もう話題にしないでほしいのに、と内心では叫びながら、鞄の持ち手を強く握りしめる。
「誰にも、言ってないよ。言ってないし、これからももちろん言わないけど、やっぱ、ちゃんと謝っておきたかったんだ、ごめん。でさ、小林、その、書いてるものさ、完成したら、改めてちゃんと読ませてくれないかな」
「ええっ」
がばっと振り向いて、沙友里は自分でも驚くほどの大きな声を出した。
「え、そんなに驚く?」
「お、驚くよ、え、なんで? なんで読みたいなんて言うわけ?」
「なんで、って……。面白そうだと思ったからだよ、小林が書いてるやつ」
沙友里はマスクの内側でぽかりと口を開けてしまった。
「嘘だあ……」
「嘘じゃねーよ」
少しムッとしたように孝弘に言われ、沙友里はようやく、このひとは本当に、ただ単純に「読みたい」のだと理解した。からかってやろうとか、素人の書いたものに興味があるとか、そういうことではなく、ただ「面白そうなものを読みたい」という単純な理由で。
「……まだ、いつ書き終わるかわかんないけど」
うつむき気味に、沙友里は言った。「文学少女【公式】」から「読ませてください」とメッセージをもらったときとは、また別の喜びが湧き上がってくるのを感じていた。
「うん」
「考えとく」
「わかった。ありがと」
沙友里はじゃあ、ともう一度言って、今度こそ教室を出た。廊下の蒸し暑さに顔をしかめたけれど、駆け出した体は軽かった。
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