第7話

 宮本孝弘が持っているノートは、間違いなく沙友里のものだった。孝弘は、片手で短い髪を無造作にかき混ぜながら、もう片方の手でノートを差し出した。

「もしかしてこれ、小林の? 机、使おうとしたら、椅子の前に落ちてたから、拾ったんだけど……」

 沙友里は返事をするより早く孝弘の手からノートをひったくるようにして受け取った。胸元にノートを抱きしめて、蚊の鳴くような声で「ありがと」と言う。

「あの、さ」

 言いにくそうに、孝弘が沙友里を窺い見る。

「それ、もしかして小説書いてるの?」

「えっ」

「ごめん、名前とか書いてあるんじゃないかと思って中身ちょっとだけ見ちゃったんだ、ちらっとだけだけど!」

 孝弘が早口に言うのを、沙友里は血の気が引く思いで聞いた。

「えっと、それで、」

「言わないで!」

 沙友里は、叫ぶように言った。孝弘が何か言いかけていたのを遮ったと気がついたのは声を出したあとだった。

「私が、小説を書いてるって、誰にも言わないで」

「え」

「……お願い」

 抱きしめたノートに顔をうずめるように、沙友里はうつむいた。しん、と静まり返った図書館の、知らないひとの視線がいくつも向けられているのを感じていた。

「わ、わかった。誰にも言わないよ」

 孝弘が困惑気味にそういったのを聞いて、沙友里はくるりと背を向け、走り去った。ノートを抱えたまま、日傘をさすこともせず一目散に家に帰りつき、おつかいをすっかり忘れてしまってスーパーマーケットへ取って返してマヨネーズときゅうりを買い、汗だくで部屋に閉じこもった。

「あーーー、もう、さいっあく……」

 床に突っ伏して、沙友里は呻く。まさかノートを落とすなんて。それを、よりにもよってクラスメイトに拾われて、さらに中身を見られてしまうなんて。しかも、その中身が書きかけの小説だなんて。

「う~~~~~~~」

 別に、孝弘が沙友里をからかうようなことをしたわけではない。もちろん、小説を書くことは悪いことであるわけでもない。でも、だからといって見られていいわけでは決してない。これまでに感じたことのない種類の羞恥心が、沙友里を苛んでいた。

 沙友里がごろごろと床を転がって呻き続けていると、スマホがぴこん、と鳴った。渋面のまま画面を見ると、亜沙子から「スイカ食べ過ぎておなかいたい~!」というメッセージが来ていた。

「もー! どーでもいいよ、今おねーちゃんの腹痛とか!!!」

 思わずそんな暴言めいたことを口に出してしまって、はー、と大きくため息をつき、沙友里はそのままスマホをいじった。亜沙子への返信はとりあえず後回しにして、「文学少女【公式】」にメッセージを送る。


さゆ:私、やっぱり、無理かも。上手く書き進められないし、そもそも書こうとしているお話はありきたりだし。


 メッセージというよりは弱音を吐き出してしまっただけになってしまった、と送ってから情けない気持ちになったけれど、送ってから取り消すのもまた情けない気がした。

 送ってから数分後に、スマホがまたぴこん、と鳴る。こんなに早く返事をくれたのか、と沙友里はようやく床から身を起こした。けれど、メッセージを送ってきたのは「文学少女【公式】」ではなかった。


りっつ:ねえねえ、さゆ、何かオススメの本ない? 最近、よく図書館に行ってるって言ってたじゃん?


 田中梨都菜だ。グループトークの画面ではなく、沙友里だけに個別で送ってきているようだった。

「え、オススメの本?」

 梨都菜からこんなことを訊かれるとは、思ってもみなかった。沙友里は驚くと同時に、なんだか、嬉しかった。今まで梨都菜と本の話などしたことはなかっただけに、新鮮な気持ちもある。それらがじわじわと、沙友里の胸に広がって、さっきまで床を転がって薄めるしかなかった羞恥心が不思議と相殺されていくように感じられた。

「ど、どうしよう、何をすすめようかな。りっつ、どんな趣味だっけ」

 沙友里はバタバタと本棚の前に移動した。

「……なんか、楽しいな、こういうのも」

 図書館から帰宅したときに部屋に放り出していたノートを、沙友里はそっと拾い上げた。上手く書き進められていないけれど、それでももう少し書いてみようと、そんな気持ちになっていた。

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